実装!「ウマ娘」の寡黙な留学生・シンボリクリスエスを「東スポ」で振り返る
「ウマ娘」では感情の起伏に乏しく、大柄で威圧感満点のキャラとして描かれているシンボリクリスエス。確かに史実における馬体も雄大で漆黒、迫力満点で、馬の見た目的には他を威圧する雰囲気はありました。ありましたが、レースや走りを見たファンが、威圧されるほど強さを感じていたかというと、実はそこまでではありませんでした、あのレースまでは。そう、クリスエスと言えばあのレース。そこまでの過程をまずは「東スポ」で追ってみます。そして、あのレースの衝撃をガッツリ皆さんへお届けしましょう。(文化部資料室・山崎正義)
ゆっくり上ろう
「シンボリ」という冠名からお分かりの通り、クリスエスは「ウマ娘」の生徒会長・シンボリルドルフと生産者が同じです。アメリカ競馬にも目を向けていた当時のシンボリ牧場が、現地で手に入れた牝馬に、米人気種牡馬・クリスエスを配合して誕生。「外国産馬」として日本にやってきました。デビューは2001年10月、2歳の秋です。
名門牧場、鞍上は名手・岡部幸雄ジョッキー、しかも前年まで6年連続リーディングだった美浦の藤沢和雄厩舎所属ですからもっと印が集まっても良さそうなのに、そこまででもなかったのは調教の動きが地味だったからでしょう。実際、4番人気という、今振り返ると信じられないような人気で出走しました。で、レースではクビ差でなんとか勝ったものの、こちらも調教同様、地味。当時のクリスエスはまだまだ体質が弱く、雄大な馬体をもてあましていたのです。トップトレーナーもそれをよく分かっていますから、この後、成長を促すために休みを入れます。復帰は年明け。しかし、1、2、3月と月イチペースで走らせたものの、なかなか勝つことができません。
馬柱内の位置取りをご覧ください。後ろからソロッと乗っているのが分かると思います。横山典弘騎手も岡部幸雄騎手も馬を大事にするジョッキーなので、成長が伴っていないのを感じ、無理をさせなかったのでしょうが、それが功を奏し、温かくなるにつれ、クリスエスは徐々に目覚めていきます。4月の山吹賞という1勝馬クラスのレースを、今までにない行きっぷりで勝つと、ダービートライアルの青葉賞(GⅡ)に挑戦しました。
そこまでメンバーが強くなかったことと、〝名門の良血開花〟感が漂っていたこと、さらに鞍上に武豊ジョッキーが配されたことで1番人気になったクリスエス。当時の感覚からすると「さすがにちょっと評価されすぎじゃ?」「売れすぎてるような…」とも思ったのですが、レースは…
内からスパッ!
2着に2馬身半差をつける完勝に、一躍ダービーの有力馬に躍り出ます。鞍上に岡部ジョッキーが戻ってきた本番ではこんなに印がつきました。
ご存じの方も多いと思いますが、青葉賞組というのは当時も、現在も、いまだにダービーを勝っていません。つまり、いつの時代もダービーは皐月賞組が強いのですが、この年はいつになくクラシック組が小粒だったこともあり、クリスエスも記者の支持を集めたのでしょう。もちろん、現場で取材していた人たちも、成長途上だとは分かっていました。ただ、どうやら遅かったその成長スピードが、春になり、一気に加速しているようにも映ったのです。私も、自分の勤める新聞に載った名伯楽のこんなコメントを読んで「おっ」となりました。
当の岡部ジョッキーはこうです。
単勝オッズは6・2倍。世代ナンバーワンと言われつつも皐月賞とNHKマイルカップを取りこぼしていたタニノギムレットの2・6倍、皐月賞馬ノーリーズンの5・0倍に次ぐ3番目で、その他に単勝1ケタ台はいなかったのですからかなりの高評価です。そして、レースでは、その期待にたがわぬ走りを見せます。中団から絶好の手ごたえで直線を向き、馬場の真ん中を一歩ずつ、一歩ずつ、伸びてくるのです。内で粘る馬たちに…
届くのか
届きそうだ
届く…
届く!
そのときでした。
外からタニノギムレット!
この春のうっ憤を晴らすかのような破壊神の本気に屈したクリスエス。しかし、陣営に悲観の色は全くありませんでした。
レース後、岡部ジョッキーも感心していたといいます。
そう、よくよく考えれば3月まで2勝目を挙げられなかった馬です。まだまだ成長途上が明白な中での2着は大健闘。関係者もファンも胸をときめかせました。
「成長したら…」
「とんでもない馬になるかもしれない…」
完成までの階段
一歩ずつ
一緒に上ろう
そう感じていたファンを、クリスエスは大きく裏切ってきます。
一段飛ばし
秋になり、クリスエスは神戸新聞杯(GⅡ)から発進しました。
その後の活躍も含め、なかなか個性的なメンバーで、競馬ファンとしては〝これだけで酒が飲める〟馬柱。故障で引退となってしまったタニノギムレットを除くクラシック上位馬も軒並み顔を揃えていました。そんな中、クリスエスの単勝オッズは2・1倍。ダービー最先着馬なのですから1番人気は当然とはいえ、数字的には期待が過剰に上乗せされているような気がしたのは私だけではなかったでしょう。馬の成長というのは不確定要素。完成しそうでなかなか完成しない未完の大器をたくさん見てきたファンからは、「売れすぎなんじゃ…」という声も上がっていたのを覚えています。しかし、クリスエスは豪快に私たちの想像を超えてきました。
すごい脚で追い込んできた皐月賞馬・ノーリーズンを突き放した2馬身半に、ファンは顔を見合わせます。
「おいおい」
「もう、きちゃった?」
「本格化、しちゃった?」
徐々に強くなっていくのを見守ろうとしていた私たちは心の準備ができていなかったようで、ポカンとしていました。進化のスピードが予想以上でついていけなかったのです。しかも、名伯楽が次走についてこんなことを言い出します。
菊花賞ではなく天皇賞・秋!
VS古馬!
春先、あれだけゆっくりだったのに、一気に動き出したクリスエス劇場。正直、早すぎる気がしました。いくら同期たちを一蹴したとはいえ、まだGⅠを勝っているわけではないですし、今と違い、当時はまだ3歳馬の天皇賞・秋は〝チャレンジ案件〟。藤沢調教師はその無謀とも言われた挑戦を、6年前に成し遂げてはいましたが、そのときのバブルガムフェローは朝日杯を勝った2歳チャンピオンで、天皇賞の前に毎日王冠で古馬と一戦交えていますから、同期としか戦ったことがないクリスエスとは立場も状況も異なりました。
「確かに成長はしている」
「でも、古馬の一線級相手となると…」
「う~ん」
もちろん、一方では好意的な声も。
「今年の古馬は弱い」
「3歳馬は斤量も軽いし」
「本格化と大物感であっさり勝っちゃう可能性も…」
何とも言えない評価が印となった馬柱がこちらです。
まだ牡馬が強い時代なのに、1番人気が牝馬のテイエムオーシャン(前年の2冠牝馬で前走の札幌記念を快勝)で、2番人気が3年前の菊花賞以来GⅠを勝てておらず、既に6歳になっていたナリタトップロードだったというのが、改めて古馬の層の薄さを浮き彫りにしています。なので、クリスエスがその2頭に次ぐ3番人気になったのは、ある意味、納得。しかし、3歳の天皇賞・秋挑戦が当たり前となった令和の今、神戸新聞杯を圧勝した本格化気配の素質馬が天皇賞・秋に出てきたらもっと人気になるはずで、そこまで評価が上振れしなかったのは、伝わってくる陣営のムードが強気とまではいかなかったからでしょう。レースの週、本紙には藤沢調教師のこんなコメントが載っていました。
ジョークを言われた岡部ジョッキーも冷静でした。
そう、やはりまだ成長途上という判断。陣営のジャッジは明らかに「本格化手前」だったのです。加えて、東京競馬場が改修中で中山競馬場での開催だったことも、広い府中や阪神で結果を残しつつあったクリスエスには、「コーナー4つを器用にこなせるか?」という懸念事項にもなりました。だからこその何ともビミョーな単勝6・5倍だったのですが、結果はどうだったかと言うと…。
あっさり勝ち切ってしまいました。
「おいおい…」
「もう、きちゃってるじゃん」
「もう、本格化しちゃってるじゃん!」
早送りのような天下取り、まさかの階段一段飛ばしについていけないファンもいましたが、誰もが予感したことがひとつ。
クリスエス時代の到来――
そう、強そうな古馬がほとんど出てきていた天皇賞・秋を勝ったということは既に国内トップです。しかも3歳の秋というのは、普通に考えればまだまだ成長の余地を残している段階。つまり、その差がどんどん広がる可能性すらあったのです。
はい、見出し通り、まさに日本のエースとして、クリスエスはジャパンカップに向かいます。進化のスピードに付いていくのに必死だったファン、いまだに「おいおい」「ホントにトップになっちゃったよ」ぐらいのファンも、追い切りの速報を見て、「これはマジですごいかもしれないぞ」と思い始めました。厩務員さんがこんな話をしていたのです。
漂ってきたのはやはりまだ成長中であること。そしてそれが天井知らずであること。外国から曲者が来日していたので印はそこまでガッツリついていませんが、クリスエスは堂々の1番人気で本番を迎えました。
天皇賞で6・5倍だった単勝は3・4倍に。3歳馬が天皇賞とジャパンカップを連勝するのはさすがに厳しいと思うのが普通ですし、未知なる外国馬がいましたから、圧倒的なオッズではないものの、若きエースなのは間違いありません。鞍上が岡部騎手から当時、短期免許で来日する外国人ジョッキーの中ではエースだったオリビエ・ペリエ騎手に替わったことも好意的に受け止められ、ファンは期待に胸を膨らませました。
「JCまで勝ったら大変なことになる」
「エースどころか」
「底が知れない」
「歴史的名馬になるかも」
結果は…
ハナ、クビ届かず3着――
あのときの競馬場の空気は何とも言えないものでした。1、2着は外国馬ですし、4着とは1馬身半離れていますからやはり日本馬ではナンバーワンです。でも、クリスエス劇場のスピード感に慣れ、腰を据えて名馬誕生を待ち望みはじめていた人たちにとっては、やや物足りなさが残りました。9番人気、11番人気という実績のなかった外国馬に負けたことも影響していたでしょう。
「もしかして…」
「そこまでじゃないのか?」
本当に強いのか信じてなかったくせに、今度は違った意味で本当に強いのか信じられなくなるのだから、ファンというのは本当に勝手です。ただ、少なくとも、「底なし」「天井知らず」ではない雰囲気は漂いはじめました。だから、有馬記念に向かったものの、話題は別の「底なし」「天井知らず」にもっていかれます。実はこの秋、とんでもない3歳牝馬が現れていたのです。
6戦無敗
夏から5連勝
秋華賞は圧勝
エリザベス女王杯も楽勝
ファインモーション!
追い切り速報でも名前が並ぶほどで、話題性で言えば圧倒的にファインでした。クリスエスの調子だって良かったんです。驚くべきことに、成長度合いで言えば「まだ8合目」なんて発言さえ陣営から出ていました。でも、ファインが一度も負けていないという事実が、「底なし」「天井知らず」感を増幅させており、「史上最強牝馬」どころか「史上最強馬かもしれない」という声まで出ていたのですから、かないません。ジャパンカップも勝っていれば別でしたが、その敗戦により、ファンの「名馬誕生への期待度」はクリスエスからあっさりとファインに移ってしまったのです。
印的には互角ですが、人気はファインが2・6倍。クリスエスは3・7倍。僅差とは言えない差ができていたのには、ファインが女の子相手に楽な戦いを続けていたのと反対に、古馬王道GⅠを戦い抜いてきたクリスエスには「余力がないのでは?」という懸念もあったことも関係していたと思われます。しかし、いい意味でファンを裏切り続けてきたクリスエスは、ここでもう一度、私たちを驚かせました。レース途中からハナを奪い、後続を引き離して逃げた13番人気タップダンスシチーが、まさに「してやったり」の4角突き放しを演じ、誰もが「やられた」と思った瞬間、一頭だけ、とんでもない脚で追い込んできたのです。
残り100で5馬身
絶望的
が!
雄大な馬体を目一杯伸ばし
ストライドの大きなド迫力の差し脚
その姿は完全に「現役最強」でした。
「やっぱり本物だったんだ」
「ジャパンカップは外国馬に脚元をすくわれただけ」
「一番強いのはクリスエスだ!」
誰もが認めざるを得ませんでした。しかも、レース後、藤沢調教師がこんなことを言うのです。
そう、国内最強の座に就いたクリスエスはまだ3歳。初の牡馬相手、変則的な展開で5着に健闘したファインも強かったですが、正真正銘の「底なし」はこちらでした。ファンは思いをはせます。来年はサラブレッドが完成するとされる4歳。
どれだけ強くなるのか。
どこまで上れるのか。
しかし、クリスエスという階段は少し、変わった造りをしていたのです。
踊り場
古馬になっての上半期。菊花賞を回避したぐらいですから、長距離に魅力を感じていなかったのでしょう。天皇賞・春には出走せず、クリスエスは宝塚記念に向かいました。
半年ぶりでもこれだけ印が付いているのは、前年秋の強さ+仕上がりが上々だったから。陣営は、上半期は来日していなかったぺリエ騎手に替わり、アメリカの名手ケント・デザーモ騎手を確保し、昨年にはなかった強気のコメントを出してきます。厩務員さんは…
助手さんも…
単勝2・1倍という数字は、6か月ぶりにGⅠに出走する馬にしてはかなり信頼されている部類でしょう。だから、4コーナーを回り、堂々と内から抜けてきたときは「やっぱり強いんだ」と思いました。まさか、伸びあぐねるとは…
確かにブランクはありました。でも、それぐらい難なく吹き飛ばすと思っていたファンは、やはり少し裏切られた気分でした。前年のジャパンカップと似たような感覚と言っていいでしょう。
「もっとすごいと思っていた」
「底なしだと思っていた」
で、そう思わせておいて、秋、クリスエスはまた私たちを驚かせます。舞台は、ぶっつけで挑んだ天皇賞・秋。
メンバーは決して強くなく、2・7倍の1番人気だったのですが、宝塚記念は2・1倍でした。6か月ぶりより4か月ぶりの方がブランク的には短いのにオッズが下がっていたのは、不安を感じていたファンが増えていたことを表しています。懸念事項はこうでした。
・秋の最大目標は前年勝てなかったジャパンカップ
・天皇賞・秋は叩き台だからメイチには仕上げていない
・東京芝2000メートルで不利といわれる大外枠
・天皇賞・秋は1番人気が弱い
中にはこんな意地悪な見方も。
「昨年、一気に成長したけど…」
「逆にそのぶん、今年になって成長が止まったんじゃ…」
穴党からクリスエス軽視論が噴出し、クリスエスファンでさえ「大丈夫かな」となっていたレースの結果を写真でご覧いただきましょう。
完勝でした。
「やっぱり強いんじゃん」
「心配しないんでいいんじゃん」
「だったらこの秋はいってもらいましょう!」
何を?
そう、目指すはテイエムオペラオー以来の「秋の古馬王道全勝」。これ、非常に現実味がありました。宝塚記念と違い、ジャパンカップも有馬記念もブランクという不安はありませんし、天皇賞・秋の不安点にもあったように、もともとJCを目標にしていたぐらいですから〝出がらし〟になるような調整法にはなっていません。青葉賞、ダービー、そして前走を見る限り、どうやら東京競馬場という舞台もぴったり。何より、めぼしい新星も誕生しておらず、ライバルも不在だったのです。しかも、ジャパンカップが近づくにつれ、そこまで強い外国馬が来日してこないことも判明しました。記者からの印がクリスエス史上、最も◎グリグリになったのも当然でしょう。
「ここも軽く勝って」
「有馬で偉業達成だ!」
降りしきる雨も敵になるとは思えませんでした。雄大な馬体がパワーを兼ね備えていることは前年秋、馬場が雨を含んでいた天皇賞を勝ち、力のいる馬場になっていた有馬で絶望的な位置から爆発的な脚を見せたことから証明されています。むしろ他馬が気にするぶん、有利にも見えましたから単勝オッズは過去最高…
1・9倍!
が、そろそろ皆さん、お気づきかと思います。結果は…
タップダンスシチーに大きく離された2着――。
あの微妙な空気
あの拍子抜け感
当時、誰もが「強い」と認めていたのに、「歴史的名馬だ」と口にする人が多くなかった理由はここにあります。そう、シンボリクリスエスという階段は「もっと上へ!」と思ったとき、踊り場になってしまうのです。駆け上がる準備をしているのに、ひと休みとなってしまう。
天皇賞・秋 駆け上がる
ジャパンカップ 踊り場
有馬記念 駆け上がる
宝塚記念 踊り場
天皇賞・秋 駆け上がる
ジャパンカップ 踊り場
交互にくるからファンはキツかった。いい意味で驚かされ、「やっぱり強いんだ!」と興奮し、期待に胸を膨らませたところで「え? 休むの?」となると、いったんついた火が消えてしまうのです。クリスエスは常に頑張っていました。陣営の努力にも頭が下がります。でも、どうしても、この踊り場はキツかった。もちろん当時、そんなことはお構いなしにクリスエスを信じ続けた人もいます。でも、当時を知る人間からすると、やはりクリスエスに熱狂的なファンがついていたとは言えませんでした。GⅠを3つ、圧倒的な勝利でもぎとっていたのに「名馬だね」とはなっていなかった。なんなら「相手が弱いから勝ってきただけ」なんて声も出ていたのです。
あの日までは
そう、あのレースまでは
未来
当時、サンデーサイレンス系ばかりになっていた種牡馬界において、その血を持たないクリスエスは非常に魅力的でした。
年内引退
翌年から種牡馬
既に主要なGⅠは取っていますから当然でしょう。クリスエスは有馬記念を「引退レース」として走ることを発表しました。
「どんなもんかね」
「王道3連勝はできなかったけど」
「調子は維持してそうだし」
「1番人気だろうし」
「まあ、勝つんじゃない?」
どこか冷めた目で見ていたファン。そう、いつの時代もファンは勝手です。強いなら強いで、この年全勝だとか、ぶっちぎり連発だとか、古馬王道3連勝だとか、そういう興奮を与えてくれればいいのですが、さあ!というところで踊り場なのでどうしても熱狂しきれない。でも、クリスエスが惨敗する姿は想像できません。名トレーナーがそんな仕上げをするわけがありませんし、相手も弱い。ジャパンカップで敗れたタップダンスシチーにしても、重馬場で乾坤一擲の走りをしてしまったことで反動が懸念されていました。冷静に考えれば考えると、クリスエスが負ける姿はイメージできず、その状況に勝手に退屈していたのです。
「いつもと同じか…」
クリスエスが悪いわけでもないのに、古馬戦線の変わり栄えしないメンバーのつまらなさを、どこかクリスエスのせいにしているきらいもありました。重箱の隅をつつくなら、最終追い切りの併せ馬で遅れたこと。ただ、これに関しても、調教をジャッジした記者も、陣営もノープロブレムだと言っていました。
唯一のツッコミどころはレース後に引退式を予定していたことでしょうか。
藤沢調教師
引退レース後の引退式
そう聞くと5年前のタイキシャトルが思い浮かびます。無敵のシャトルが単勝1・1倍で3着に敗れた例を持ち出し「同じことが起こるんじゃ?」という声もありましたが、ややオカルトに近いものでした。追い切り後、「プレッシャーは?」という質問に、藤沢調教師自身が、「タイキシャトルの苦い経験があるからな」とジョークで返したのも自信の裏返しに見えました。
「まあ、勝つよな」
「強いもん」
「時々負けるけど」
「今回がその順番とは思えない」
「少なくとも2着は外さない」
「黙ってクリスエスから買うしかないか」
「オッズは全然つかないけど(苦笑)」
夢を見たい年末のグランプリだからこそ、余計に冷めていたファン。穴馬を見つけようにも見当たらないぐらいのメンバー構成で、唯一、対抗できそうな未対戦組の筆頭、同じ藤沢厩舎の3歳馬・ゼンノロブロイを買おうとしても、しっかり評価され、3番人気になっていましたから妙味もなさそうでした。
クリスエスの単勝は2・6倍。秋3戦目なのと、タップ同様、少なからずジャパンカップの反動が心配されていたため、1倍台にはなりませんでしたが、そのJCを勝ったタップが3・9倍なのですから、やはり誰もが「勝つんだろうな」と思っていたのが分かる数字です。
「オッズは低いけど」
「クリスエスからしっかり当てて」
「来年以降、次のスター誕生を待つか…」
そんなふうファンファーレを聞いていた自分たちのハートが、2分半後、あんなに揺さぶられるとは誰が思ったでしょう。
あんなふうに裏切られるなんて
階段に先があるなんて
誰が思ったでしょうか。
戦前の予想通り、タップダンスシチーがハナを切りました。ただ、単騎逃げには持ち込めません。なんなら、アクティブバイオとザッツザプレンティという馬がレース前半でタップを交わし、2頭が離して逃げる展開になったので、波乱を望んでいたファンは「おっ」「何か起こるか?」と期待したかもしれません。さらに、3コーナーでは、その2頭とタップにリンカーンという馬に乗った武豊ジョッキーが迫っていき、奇襲とも言えるマクリを打ちます。
4番人気の菊花賞2着馬
きても2着かな…という追い込み馬
そんな馬が4角先頭
「おおっ」
「勝負に出た」
「クリスエスに一泡ふかすか!?」
天才の勝負手に、有馬で起こる何か、変わり栄えしないメンバーの低調な一戦をぶち壊す何かに期待していたファンはいきり立ちました。いきり立ったのですが、よく見ると、そのリンカーンの後ろを、あの黒い馬がついていっていました。
持ったまま
楽々と
悠々と
シンボリクリスエス――
「そんな奇襲、意味ないですよ」
そう言わんばかりの1番人気
直線を向いてあっさりリンカーンをかわしました。
「やっぱり強いのか」
ペリエ騎手のムチが飛びます。
追います。
伸びます。
「やっぱり強い」
「強いよな」
タップが自分の形の持ち込めなかった以上、ライバルはいません。手ごたえも十分でしたから、ファンは勝利を確信し、2着争いに目を移しました。誰が伸びてくるんだろう。自分が買った馬はどのあたりにいるんだろう。カメラも一瞬、そちらを映しました。確認OK。じゃ、先頭は…ファンとカメラが視線を戻したき、とんでもないことが起こっていました。
「え?」
突き放す
突き放すかもしれないと思ってはいましたが、想像以上。
漆黒の巨体
雄大なフットワーク
ドスンドスン
ぐわんぐわん
「おい…」
「おいおい…」
「まだ?」
「もっと?」
「え?」
「え?」
「!!」
「!!!!!!」
「あわ…」
「あわわわ…」
声を失ったファンの心の中はこうでした。
強いんです。
強いのは分かっていたんです。
でも…
「こんなに…」
「こんなに強いなんて…」
「こんなに強かったなんて…」
見る目は一変しました。
相手が弱いから勝ってきた馬じゃない
そんな馬にこの勝ち方はできない
こんな圧倒的な
威圧的な勝ち方はできない
言葉がないほどの強さ
時間が止まるほどの圧倒
驚きと困惑の圧倒
称賛を忘れるほどの圧倒的勝利にファンは呆然とするしかありませんでした。電光掲示板の赤い「レコード」という文字を目にしても、現実感がありません。私も、周りの人も、みんな口を開けていました。そして、場内に流れるリプレーを見て、口を開けたまま見て、ゆっくりゆっくり、現実を受け止めていきました。そのうちに、ジワジワと、ある感情が湧き上がってきました。
畏れ――
怖いほどの強さだったんです。でも、恐れではない。それを超えた、敬うほどの強さに畏れを抱き、ただただ口を開けているしかなかった。しばらくして、その畏怖なる感情が数字になりました。
電光掲示板
着差に映し出されたのは
9――
威圧的とも言える数字でした。
GⅠです。
実力馬が集うグランプリです。
そこで9馬身。
有馬史上最大着差
なんならグレード制導入以降、GⅠでの最大着差
「すごいものを見た」
「とんでもないものを見た」
ただ、しばらくして複雑な気持ちになってきました。
「こんなことが…」
「こんなことがあるのか」
ファンを戸惑わせたのは、「今までの踊り場はなんだったんだ」という感情と、これが引退レースという事実でした。史上最強とも思える強さを満天下に知らしめた馬は、もうレースを走らないのです。
「どうして…」
「こんなに強いのに…」
階段は終わったんです。最上階に来たはずなんです。なのに、景色はぼんやりしていました。
「なんだ…」
「なんなんだ…」
引退レースでここまで評価を上げる馬がいるのか…という思いと、それを超える混乱と困惑。複雑すぎる感情のまま、ファンは引退式に参加しました。
暗闇の中
ライトアップされる漆黒の馬体
「すげぇ…」
圧倒されました。
「すげぇ…」
その言葉しか口から出ませんでした。そして、再びやってきた畏れが、モヤモヤしていた感情を別のものに変えました。口を開けながら見ていたファンが
「あっ!」
「待てよ…」
気付いたのです。
「この馬体が…」
「これだけの強さが…」
「子供に引き継がれたら」
「すごいことになる…」
「とんでもない馬が出るかもしれない…」
競馬ファンは畏れの先に未来を見ました。
階段の先にさらなる階段
その先
かすかに見える出口から光
それはクリスエスが教えてくれた競馬の奥深さでした。
引退レースなのに
その馬がターフを去るのに希望が抱ける――
競馬、恐るべし
いや、畏るべし
ジャパンカップをぶっちぎるエピファネイアが生まれるのはこの7年後。そのエピファネイアがデアリングタクトとエフフォーリアを誕生させたことで、私たちは再び、あの日の、あの有馬記念のクリスエスに畏怖を抱くことになります。