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野球をやめるつもりの僕に舞い込んだトレード、そして〝最後〟はあの球場に導かれ…【太田幸司連載#10・最終回】

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ジャンボ尾崎さんの活躍に触発され、プロゴルファー転向を決意!?


 2年目のシーズンを終えたボクは、もう野球をやめるつもりでいた。故障でもないのに体が動かず、まともな球が投げられない。それでも人気は全く衰えず、球宴ファン投票では二軍暮らしなのにダントツの得票で選出された。それからというもの、周囲の厳しい視線が体中に突き刺さる日々が続いた。<ふん。実力もない人気だけの選手のくせに>――。

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故障でもないのに体が動かないことに悩んでいた太田氏

 昭和46年(1971年)オフ。信頼する知人に悩みを相談したところ、あるお寺の住職を紹介された。「野球をやめるつもりです。精神的にきつすぎる。もう限界です」と打ち明けた。本気だった証拠に、第2の人生プランも練っていた。プロゴルファーへの転向だ。ちょうどこの年、実質1年目のジャンボ尾崎さんがビッグトーナメント・日本プロゴルフ選手権で優勝する衝撃デビューを飾り、日本中をあっと言わせていた。尾崎さんも甲子園球児だ。昭和39年のセンバツ大会で徳島・海南高のエースとして優勝し、鳴り物入りで西鉄に入団したが、壁にぶち当たってユニホームを脱いだ。何だか境遇が似ていたし、ゴルフという競技にも興味があったので「ボクも挑戦してみる」と腹をくくっていた。

ジャンボ尾崎と青木功(1986年)

ジャンボこと尾崎将司氏(左)もかつては甲子園球児だった(1986年、右は青木功氏)

 住職は言った。「あなたの名前は知っています。ひょっとして、いつまでも三沢高の太田幸司を引きずってはいないか。プロの太田幸司という新たな自分をつくっていかなければならないのに、新しいことにチャレンジしているとは思えない。甲子園を目指した時のガムシャラな姿勢を忘れてはいないか。新しい自分を見つけなさい。やめるのはそれからでも遅くはない」

 目からうろこが落ちた。しばらく考えて、一つの結論を出した。職業を変えるのではなく、投球スタイルを変える。甲子園に旋風を巻き起こしたストレート主体の本格派から、変化球を投げ分ける技巧派への転向だ。腕を下げて投球フォームをスリークオーターに改造し、スライダーとシュートを必死になって覚えた。自主トレ、キャンプ、オープン戦。それなりの手応えをつかんで昭和47年のシーズンを迎えた。

 転機は7月25日の球宴舞台。この年も1勝しか挙げていなかったのに、ボクは3年連続の大量得票でオールスターにファン選出され、甲子園での第3戦に先発した。全セの阪神・江夏豊さんと投げ合い、0―0で迎えた3回。1点を取られてなお無死一、二塁のピンチだったが、3番・王貞治さんをスライダーで泳がせて遊飛、4番・長嶋茂雄さんをシュートで詰まらせて二ゴロ併殺に斬って取った。

長嶋茂雄と対戦する太田(1974年、オールスター第2戦)

オールスターで長嶋茂雄と対戦した太田氏

 この年にマスターしたばかりの変化球が天下のONに通用し、大きな自信になった。「よし。やってきたことは間違いない」。高校時代に剛腕を見せつけた甲子園で、ボクは生まれ変わった自分の生きる道を見つけた。

ベンチ裏から見るしかなかった「江夏の21球」

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