【ダイアモンド✡ユカイ×織田哲郎 対談・中編】音楽少年の人生を変えた長戸大幸さんとの出会い
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「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。ゲストはシンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサーとして多数のヒット曲を世に送り出した織田哲郎。1970年代にカリスマ的な存在だった吉田拓郎を、中学生だった織田が「認めてなかった」理由とは? 腕のあるミュージシャンがビーイングに集まったワケとは?(企画構成=アラフィフ記者F)
中学時代は吉田拓郎を認めてなかった
ユカイ 織田さんはよく「俺はフォーク少年」って言ってますよね。
織田 俺にとって、アコースティックギターで弾き語るのが音楽の基本なんだよ。ボブ・ディランを好きだからだろうね。
自身のユーチューブチャンネルでも弾き語りを多く披露している織田
ユカイ ディランのファンって、織田さんより上の世代が多いんじゃないですか?
織田 俺の世代はディランのファンより、ディランに影響を受けたアーティストのファンが多いね。吉田拓郎さんとか。
ユカイ 拓郎さんは聴いてました?
織田 イギリスから帰ってきたらはやってたんだけど、あのころの俺は認めていなかった(笑い)。
ユカイ 認めないって、中学生でしょ?
織田 中学3年生。先にディランを好きになってたから、拓郎さん聴いて「ボブ・ディランそっくりそのままじゃん! パクリすぎじゃね」って思ってさ。
ユカイ 拓郎さんはディランからの影響を公言してるし、過去にパクリも認めてますね。それに昭和の日本は、洋楽の丸パクリがけっこうあったから(笑い)。
織田 寮にいたら、他の部屋から拓郎さんの歌が聴こえてくるんだよ。「あ、いいじゃん」と思ったし、声がいいから聴いてると好きになってくるんだけど、ディランファンとして認めたくなかったから、「レコードは買わねぇ」って抵抗してた。ずいぶん後、「外は白い雪の夜」(1978年)を聴いた時に「いい曲だな。もういいや、買っちゃおう」ってアルバム「ローリング30」を買ってさ。初めて買った拓郎さんのレコード。
ユカイ 俺もカバーしたけど、名曲ですよね。拓郎さんは当時の若者にとってどんな存在でした?
織田 圧倒的な存在だったよ。音楽業界というより、日本の若者文化の一番のスター。
時代の寵児だった吉田拓郎(73年6月、共立講堂)
ユカイ 他のフォークシンガーは聴かなかったんですか?
織田 あんまり聴かなかったね。日本のフォーク全体に漂う貧乏くささが好きじゃなくてさ。アメリカのフォークとは違うんだよ。アメリカから入ってきたものなのに、どこでどうこじらせたのか。
ユカイ それは面白い指摘ですね。織田さんは洋楽が好きだったから気になったんだ。言われてみればアメリカのフォークのかっこ良さが消えて、日本には別のフォークが生まれてた。
織田 演歌の「貧乏」「苦労」的な部分がフォークに混じって、妙なあんばいになってる感じ。なんだこの貧乏くささは、と思ってさ。俺はギターを弾きだしてすぐにプロになりたいと思って、当時から作曲してたんだけど、こういうのの影響は受けちゃいけないと思ってた。
ユカイ それはいくつの時?
織田 中3の時だね。
ユカイ そんな時から曲を作ってたんですか。
織田 いろいろ作ってたよ。当時の日本のフォークとは違う方向性のものを作らなきゃと思いながら。
ユカイ 自分のバンドでオリジナルを演奏したりは?
織田 高校に入って初めてトリオ編成のバンドを組んだけど、やっていたのはジミ・ヘンドリックスとか洋楽。オリジナル曲を発表したのはプロになってからだね。
ユカイ 初めて組んだバンドはどんなバンドでしたか?
織田 グダグダで、あんなひどい演奏は見たことがない(笑い)。だから俺、たまにアマチュアバンドコンテストの審査員やるんだけど、どんなに下手でも優しい目で見てますよ(笑い)。先のことはわからないじゃん。
俺をデビューに導いた男はジミー・ペイジよりギターがうまい天才高校生!
ユカイ 高校に入って初めてバンドを組んだ時はまだ高知?
織田 高校1年生の時で、その時は高知。親はまだイギリスだったから、両親の出身地で親戚が多い高知の学校に入ったわけ。2年の時に両親が帰国して、東京の高校に転校した。
ユカイ その東京の高校で“運命の出会い”があったんですよね。
織田 実は高知時代は自分のエレキギターを持ってなくて、バンドメンバーのいとこに借りてたんだよ。転校してエレキを買いたかったから、クラスのやつに「フライングVが欲しい。誰か売ってくれないかな」って話したら、「ちょうど売りたいやつがいる」って。それが北島健二。
――あの1970年代末から活躍するスーパーギタリストの!?
ユカイ 同級生だったんですよね。当時からうまかったんですか?
織田 そう。とんでもなくうまくて、俺なんてお話にならないレベル。レッド・ツェッペリンのコピーバンドをやってたんだけど、本家のジミー・ペイジよりうまいんだよ。例えば「Whole Lotta Love」(69年、邦題=胸いっぱいの愛を)でジミー・ペイジがライブでは省略する部分も、北島はきっちり弾いていた。
――3大ギタリストのひとり、ジミー・ペイジよりうまい高校生って…
織田 あまりのうまさに、こっちはその日から人前でギターを弾く気をなくしたわけよ(笑い)。俺はギタリストを目指していたけど、北島との出会いを機に「歌おう」となった。
ユカイ 出会うきっかけになったフライングVはどうしました?
織田 買って、家で地味に弾いてました(笑い)。それはグレコ製だったんだけど、北島はその時、すでにギブソンのSGを持っててさ。高知から来た人間としては、本物のギブソンを持ってるってだけでビビるよ。神棚に飾るような物だと思ってたから。
ユカイ 高校生がよくギブソンを持ってましたね。ところでなぜフライングVだったんですか?
織田 マーク・ボラン(T・REX)の影響だね。
マーク・ボランの持っていた「フライングV」がきっかけだった(73年10月、ヒルトンホテル)
ユカイ その後、北島さんとは。
織田 それから一緒にバンドをやるようになった。北島も俺も完全にプロ志向でね。俺は親から「大学だけは行ってくれ」と言われたので籍だけ置いてた。北島は高校を卒業していろいろやって、舘ひろしさんのバンドに入った時に長戸大幸さんと知り合うんだね。長戸さんが舘さんの曲を作ってたから。
ユカイ クールスを辞めた後の「舘ひろし&セクシーダイナマイツ」の時ですね。
織田 その時期だね。で、北島から「長戸さんが歌えるやつを探してる」と聞いて会いに行ったんだよ。19歳の時。長戸さんから「レコーディングしてるから遊びにおいで」って言われて、初めてレコーディングスタジオというものに入ってね。当時はスタジオに行けるってだけですごいことでさ。
ユカイ 後のデビューにつながる大きな転機じゃないですか。
ドラムを叩きながら熱唱する舘ひろし(2010年7月)
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