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【ダイアモンド✡ユカイ×織田哲郎 対談・前編】意外すぎる音楽ルーツを大激白!

「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。今回からのゲストは、シンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサーとして多数のヒット曲を世に送り出した織田哲郎。(企画構成=アラフィフ記者F)

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織田哲郎の原点は、ラジオで聴いた「ザ・モンキーズ」と「サイモン&ガーファンクル」

 ――織田さんの音楽的なルーツ、つまりどんな音楽が織田さんの曲作りに影響を与え、どうしてこれほどたくさんのヒット曲を生み出せたのか、その根源を教えてください。最初に好きになったアーティストは?

 織田 最初はモンキーズだね。そしてサイモン&ガーファンクル。

 ユカイ テレビで「ザ・モンキーズ・ショー」(日本での放送は1967~69年)とかやってましたよね?

 織田 見てたよね。「デイドリーム・ビリーバー」(67年)って曲が本当に大好きで、33回転で4曲入ったレコードがあって、オートリバース機能でず~っと一日中かけてたよ。

 ユカイ あれはいい曲。

 織田 ほんといい曲! それからちょっとして、サイモン&ガーファンクルね。最初は「サウンド・オブ・サイレンス」(64年。65年にシングル発売)。買ったのは10歳ぐらいの時かな。

 ユカイ 「サウンド・オブ――」や「スカボロー・フェア」が使われた映画「卒業」(67年)の影響?

 織田 映画とは関係なく、小学生の時から夜中にラジオ聴いてて、兄貴の影響でFENも聴いてて、どっちだったかで流れて。

 ユカイ 小学生から夜中にラジオを聴いてたんですか。サイモン&ガーファンクルって、デビューしてすぐに解散状態になったでしょ。

 織田 デビューアルバムを出した後、売れなくて2人での活動をやめてたんだけど、アコースティックギターのみで演奏していた「サウンド・オブ――」に、アルバムのプロデューサーが勝手にドラムやベースやエレクトリック12弦を足して、シングルカットしちゃった。2人が知らない間にそれが出て、大ヒット。「あれ? 売れてるぜ」ってまたやるようになったんだよ。

――66年に米ビルボードで1位になりました

 織田 で、70年かな、小6か中1の時に「明日に架ける橋」(70年)や「コンドルは飛んで行く」(70年)のシングルも買って。中2から親の仕事の関係で英国に住むんだけど、バザーみたいなところで初めて自分で買ったアルバムが「明日に架ける橋」(70年)。

 ユカイ 何が入ってましたっけ?

 織田 「明日に架ける橋」「コンドルは飛んで行く」「いとしのセシリア」、あと「ボクサー」とか。

 ユカイ ベスト盤並みに名曲揃いですね。

 織田 今聴いても素晴らしいと思うよ。メロディーもいいし、アレンジとか音楽のいろんなマジックが詰まったアルバム。例えば「ボクサー」とかさ、とにかく演奏がすごくいい。で、ドラムね。途中から「ドンツトドンドンツトドン」ってベードラの音が入って、これはその後、日本のフォークソングでいろんな人がマネするわけだけど、これってすごく変でさ。というのはドラムの概念を分解してベードラだけ入れてるわけ。で「ライラライ」のとこで「パーン」とスネアが入る。なんだそのパーンは!って言いたくなる入れ方で、非常に斬新なんだよね。

――日本のフォークはそういうところを拾い上げて吸収してたんですね

 織田 あとセシリアはループを使って世界で初めてヒットした曲じゃないかな。チャカポコパカってテープで作ったループがずっと流れてる。ポール・サイモンって変なやつなんだよ。オーソドックスな音楽の良さやメロディーを求めながら、いろいろ新しいことを試そうとしていて、そのバランスが面白いんだよね。

 ユカイ アフリカンミュージックを最初に取り込んだりね。

 織田 ミュージシャンとして貪欲だから、いろんなところに突っ込んでいって学ぼうとする。追求する姿勢が素晴らしいんだよね。批判もされるんだけど。

小学生のころはヤンキーぽい感じの青江三奈に胸キュン

青江三奈2(1975年)

本紙の来社取材でインタビューに答える青江三奈(75年8月)

――織田さんは1971年に英・ロンドンに転居されました。ロンドンではどんな音楽を聴いてましたか

 織田 はやってたのはT・REXとスレイドで、俺はスレイドが大好きだった。最近も車で聴いてたらテンションが上がったぐらいで、いまだに好きだよ。

 ユカイ どちらも「グラムロック」の元祖的存在ですね。でもT・REXよりスレイド?

 織田 俺がいたころ、スレイドはすごい人気でね。71年から73年にかけて次々にヒットチャートで1位を取ってたんだ。

 ユカイ 日本ではスレイドは人気なかったんじゃないですか? T・REXの方は音楽雑誌が積極的に取り上げていたし、鋤田正義さんがマーク・ボランの写真を撮ったりで知ってた人は多そうだけど。

 織田 そう、イギリスだけで人気だったんだよ。アメリカでも全然売れなかった。2年後に日本に戻ったら、スレイドを誰も知らないばかりか、たまに雑誌なんかで見ると「バカバンド」扱い(笑い)。好きだったからムカッときたよね。まぁ、バカバンド扱いされるのも仕方ないなと思う部分もあったんだけどさ。ルックス的に(笑い)。

――織田さんの音楽的ルーツのひとつがスレイドだったとは意外です。「バカバンド」扱いしていた人も聴き直すと思います。アラフィフの私はクワイエット・ライオットがカバーした「カモン・フィール・ザ・ノイズ」(83年)と「クレイジー・ママ」(84年)で知りました

 織田 アメリカではクワイエット・ライオットのカバー曲の後に知られるようになって、84年にやっと1曲スマッシュヒットしたんだよね。

 ユカイ T・REXの方はどうでしたか?

 織田 マーク・ボランのカリスマ性は感じてたね。

 ユカイ 時代の寵児でしたよね。時代の寵児って、だいたい3年ぐらいで人気が終わるんだけど、その3年間の輝き方ってすごくて、それを織田さんはジャストタイムでロンドンにいて見てたんですね。

 織田 まさにね。スレイドもピークは3年間だったけど、ロンドンにいたのはちょうどその時。俺がいた2年間って、グラムロックとプログレッシブロックのピークでもあったんだよ。イエスとかジェネシスとかEL&Pとか、「名盤」と呼ばれたアルバムがその2年間にたくさん出た。グラムとプログレって、ある意味、イギリスらしいあだ花というかね。面白い時代にいれたよね。

 ユカイ 昔の日本はレコード発売も少し遅れていたし、情報も限られていたから、当時のロンドンでじかにグラムやプログレに接しられたのは音楽的な体験として大きいですね。日本の音楽はどうだったんですか?

 織田 小学校の時は歌謡曲が好きだったよ。とにかく青江三奈が大好きでさ。

青江三奈1

青江三奈(76年10月、新曲発表イベントで)

 ユカイ あの強烈なインパクトのイントロ、「伊勢佐木町ブルース」(68年)の。

 織田 一番好きだったのは「国際線待合室」(69年)って歌なんだけど、今聴いても、あのころの青江さんは日本人最高のシンガーだと思う。

 ユカイ どういうところがですか?

 織田 歌が本当にうまいし、声も素晴らしい。ブルースを歌うために生まれた声みたいなね。それにあの1~2年の存在感が特別でね。決して蝶ではなく、派手な模様の蛾のような、なんともいえない雰囲気でね。

 ユカイ 当時、小学生でしょ?

 織田 そう(笑い)。そのころからヤンキーぽい感じが好きだったんだよね(笑い)。紅白とか金髪で出てたし、そういうのにキュンとしちゃうんだよ(笑い)。

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テンプターズ「おかあさん」は逆回転再生で聴くといいメロディー!?

――織田さんが大好きな青江三奈といえば、代表曲は「伊勢佐木町ブルース」(1968年)です。その前には美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」(66年)など、60年代後半から「〇〇ブルース」という曲が多数現れました。これは本場のブルースと比べるとどうなんでしょう

 織田(内山田洋と)クール・ファイブや森進一さんも「〇〇ブルース」が多かったよね。「中の島ブルース」とか「盛り場ブルース」「港町ブルース」とか。

 ユカイ 音楽的にはムード歌謡や演歌ですよね!?

 織田 ブルースといっても、あくまで日本的で独特な形式だね。3連符でところどころに「ブルー・ノート・スケール」、つまりブルースでよく使われるリズムと音階を差し込んでるけど、基本は歌謡曲だね。大きなくくりでいえば、演歌自体も日本のブルースだと思うけど。

 ユカイ 織田さんは演歌は好きだったの?

 織田 メジャーなキーのブルースで、サックスが出てくるのが大好き。青江さんで言えば、「国際線待合室」はメジャーな音でキメのところにブルーノートが入る。ここがなんとも言えないんだよ。よごれのにおいがしてきて。

 ユカイ 子供の時からそういうの感じてたんですか!?

 織田 そう、子供の時からだよ。青江さんはブルースを歌うために生まれたような声の持ち主だね。

 ユカイ 同じ60年代後半にはGSブームもありましたよね。影響は受けました?

ショーケン(73年)

カリスマ的な人気を誇ったショーケン(73年、日比谷)

 織田 影響受けたよ。かっこいいと思ってたのはショーケンこと萩原健一さんだね。ザ・テンプターズが「おかあさん」(68年)を出した時は「なんだこれ!?」と思ったけど。

 ユカイ あの曲、ショーケンは歌ってないんですよね! コーラスだけで。リーダーでコンポーザーの松崎さんは才能あったしシングルとして発売されたけど、ちょっとイッちゃってる感じだよね。

――「オーママママ~」と歌う、妙な感じの曲ですね

 織田 小学校の時にうちの親父がテレコを買ってくれてね。GSがテレビに出ると、スピーカーにマイクを近づけて録音して、何度も聴いてたんだよ。そのうち録音したテープを逆回転で再生するという遊びを覚えて、いろんな曲を逆回転で聴いてさ。「おかあさん」は逆回転にするとすごくいいメロディーだったよ。

 ユカイ スタジオ作業みたいなことを小学校の時から!?

 織田 今もスタジオ作業が好きなんだけど、小学校の時からこういうの好きだったんだよね。つながってるよ。

 ユカイ 2年間の英国・ロンドン生活を終えて帰国したころ、はやっていたのはどんな曲でした?

 織田 ちょうどフォークがすごく盛り上がってきてたね。

 ユカイ よしだたくろうさんの「元気です。」(72年)とか?

 織田 その少し後に井上陽水さんの「氷の世界」(73年)が出たり。

――どちらも日本のフォーク史に残る名盤です

 織田 帰国した時、両親はまだ英国にいて、俺ひとり先に戻ってきてね。親戚が高知にいるから、中学3年から高知の学校に入って、寮に住んだんだよ。そこにはギターを持ってるやつがいっぱいいた。

――フォークブームを反映してたんですね

 織田 その寮でギターを借りて、初めて弾いた。

 ユカイ え! それまでは? 

 織田 弾いたことなかったよ。

 ユカイ ロンドンにいた時も?

 織田 実はあのころは画家になろうと思ってたんだ(笑い)。

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40歳過ぎてハマったビートルズ!俺の中にもジョンとポールみたいなのがいて…

 ユカイ 楽器は全く触ってなかったんですか?

 織田 1971年にロンドンに行ってからピアノを弾くようになったね。行く学校行く学校に自由に弾けるピアノがあってさ。最初に覚えたのがビートルズの「レット・イット・ビー」(70年)。あの曲がすごく好きで、一日中弾いてたよ。ほかに弾ける曲もなかったし。

 ユカイ ここまでビートルズの話が出てこなかったけど、聴いてました?

 織田 正直、若いころはあんまり聴かなかったんだよ。「レット・イット・ビー」は大好きだったし、この曲と「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」(70年)のシングルを持ってたけど、あくまでいい曲だなと思って買っただけで、ビートルズが、とはならなかった。ちゃんと聴くようになったのは大人になってからだね。なんだこれ、スゲーじゃん!って。

――何歳ぐらいからですか

 織田 40歳過ぎてからだね。いろんな曲を聴くにつれて「ビートルズってどれ聴いてもいいじゃねえか、この野郎!」ってなった(笑い)。英国にいたころは「イマジン」(71年)とか、ジョン・レノンの新譜が出るたびに買ってたけど、振り返って昔のアルバムを買うことはしなかったからさ。

 ユカイ 曲作りとか、影響受けてます?

 織田 たぶん、そんなに強く影響は受けてないと思う。ただ精神的な部分でいつも思うことがあるんだよ。ジョンってその時の自分が面白いと感じることに忠実。一方、ポール・マッカートニーは音楽的な完成度が高いかに価値を感じる。この2人の感性のぶつかり合いがビートルズをあれだけのものにしたと思うんだけど、俺の中にいつでもジョンとポールみたいなのがいるわけ。

 ユカイ ん? どういうこと?

 織田 こっちのジョンが「面白いことやろうよ」と言ってるけど、こっちのポールが「それ、音楽的にどう?」と言ってて、今回はポールの言うこと聞こうよ、みたいなね。そういう意識の仕方はしてるね。

――40歳というとすでに数々のヒット曲を送り出した後ですが、ビートルズを聴いてどんなことを思われましたか

 織田 ビートルズ時代でいうと、ポールの曲の方が好きなのが多いんだけど、すごく面白いのがね、ポールってビートルズ時代とソロとでは、曲作りのリミットが違うんだよ。ジョンと一緒にやってた時のポールは、「これぐらいやってもいいよね」と、ジョンに負けないぐらい面白いことをやってるわけ。例えば「ヘイ・ジュード」(68年)。前半に「さすがポール!」という構築があった上で、後半はずっと「ナーナーナー」の繰り返し。なんだこれ!って。

 ユカイ 7分11秒の曲で、4分ちょっと「ナーナーナー」ですね。

 織田 これ、すごい話でね。ああいう冒険的な曲作りは、ソロになってからやってないんだよ。

ポール・マッカートニー(2014年)

2014年に来日したときのポール・マッカートニー(14年5月、羽田)

 ユカイ バンドって面白くて、あの2人は実は一緒に作った曲ってそんなにないんだけど、例えばアルバム「ラバー・ソウル」(65年)でいうと、ポールの「ミッシェル」とジョンの「ガール」は同じようなテイスト。通じ合ってるんですよね。ただ詞を見ると、「ミッシェル」はフランクで「ガール」はすごく深いという違いはあるけど。

 織田 ビートルズ時代は2人で影響を受け合ってたんだね。あの2人がビートルズとして一緒にやっていたのって、本当に面白いよ。(中編につづく)

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おだ・てつろう 東京都出身。シンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサー。1979年にユニット「WHY」でデビュー。80年代半ば以降、作曲家として「シーズン・イン・ザ・サン」「世界中の誰よりきっと」「負けないで」やレコード大賞を受賞した「おどるポンポコリン」などのヒット曲を生み出し、自身のシングル「いつまでも変わらぬ愛を」もミリオンセラーに。累計シングル販売数4000万枚以上。プロデューサーとしては相川七瀬らを手がけた。ダイアモンド✡ユカイらとのバンド「ROLL―B DINOSAUR」で2枚のアルバムをリリース。
ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

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