「ウマ娘」でも地方出身!〝平成三強〟イナリワンを「東スポ」で振り返る
6月に実装され、人気を博している「ウマ娘」のイナリワン。小柄でガッツあふれる江戸っ子の育成ストーリーの前半はダート路線で、シニア級になってから芝の王道路線を歩むことになるのですが、それは地方競馬出身である史実をなぞっているからでしょう。後に、オグリキャップ、スーパークリークとともに「平成三強」と称されることになる名馬を「東スポ」で振り返ります。(文化部資料室・山崎正義)
鳴り物入り
ゲーム内で「江戸っ子」であり「大井印の粋なウマ娘」なのは、イナリワンが東京の大井競馬場に所属していたからです。大井は中央ではなく、地方の競馬場。当noteでも折に触れて紹介してきましたが、地方競馬はレースのほとんどがダートで、規模やレベルで言えば中央にはかないません。ただ、そんな中でも南関東はレベルが高く、その中心でもある大井は競馬場のサイズも地方最大で、昔から大レースの舞台にもなっていました。いち早くナイター競馬を始めたことでも知られ、イルミネーションに彩られた場内はデートスポットにもなっています。
そんな競馬場で頭角を現したイナリワンは、デビュー7連勝で、当時の南関東競馬の三冠最終戦・東京王冠賞を制します。まだ元号が「昭和」だった1987年。当時、地方競馬については今ほど紙面を割いていなかった本紙ですが、しっかり記事になっていました。
で、この後、連勝を8まで伸ばしたイナリワンは古馬になった翌年、さらになる飛躍を目指したのですが、苦手の重馬場が続いたこともあり、勝利から見放されてしまいます。復活したのは年末。地方競馬の1年の総決算・東京大賞典でした。
印をご覧いただけば分かる通り、本命馬ではなかったのですが、3番人気で完勝。この勝利で、オーナーさんは、以前から抱いていた野望を実現させます。
中央へ――
年が明けて1月、関東の拠点・美浦トレセンに入厩したときは、大きなニュースになりました。
地方の猛者が中央に移籍してくるケースはあったものの、通用するのは稀でしたから、以前ならここまでの扱いではなかったはずです。しかし、このときは状況が異なりました。前年、笠松競馬場(岐阜)から中央入りしたオグリキャップが〝芦毛の怪物〟として怒涛の連勝を飾り、年末には3歳馬ながら有馬記念も優勝、大フィーバーを巻き起こしていたのです。そんな中で、〝地方競馬版有馬記念〟とも言える東京大賞典を勝った実力馬が移籍してきたので、メディアも「地方出身馬対決だ!」と盛り上がったんですね。陣営からは当面の目標も明かされました。
目指すは春の天皇賞――
まず、足慣らしとして選んだのはオープン特別のすばるステークス(京都・2000メートル)。出走を控えた週には、こんな記事。
これも当noteで何度か書いていますが、地方出身馬の活躍は「東京のエリートをやっつけろ」的なストーリーになりやすく、日本人の好物でもありますから、注目度も期待度もかなりのものでした。
「オグリのライバルも地方出身馬」
「地方出身馬同士が中央でトップを争う」
そんな物語を誰もが脳裏に描いていたからこそ、4着の敗れたときのガッカリ感はなかなかのものだったと記憶しております。月曜日に載った本紙の記事も残念ムードにあふれていました。
大敗ではありませんし、まだ芝に慣れていない可能性もあるので、管理する鈴木清調教師はそれほど悲観していませんでした。ただ、記事にはこうあります。
そうそう怪物は出てこない――
オグリ級ではないのは明らかで、続く阪神大賞典(GⅡ)でも2番人気で5着に敗れたので、ファンのガッカリ度はさらに強まりました。
「たいしたことないのか…」
阪神大賞典では大きな不利も受けており、仕方のない面もあるのですが、イナリワンの評価はめちゃくちゃビミョーなものになります。予定通り、天皇賞・春に駒を進めたものの、こんな印。
かなりメンバーが小粒なのにコレですから、「疑」寄りの「半信半疑」だったと言っていいでしょう。ただ、注目度は低くありませんでした。なぜなら、ジョッキーが武豊騎手にチェンジされていたのです。お手馬のスーパークリークの体調がなかなか整わず、ちょうど乗り馬がいなくなっていたタイミングでのタッグ結成。前年、弱冠19歳でGⅠジョッキーとなった天才は、まだデビュー3年目を迎えたばかりなのに、この年、この時点で全国リーディングを突っ走っていました。まさに日の出の勢いでしたから、イナリワン陣営としては強い味方です。しかし、追い切りに乗った天才はすぐにあることを見抜きます。コメントの中に次のようなものがあったのです。
レース前に騎手が「折り合いを…」と口にしている時点で、不安を感じている証拠です。実は、イナリワンの父・ミルジョージの産駒は気性が激しいことで有名で、2月の初めから2か月半、付きっ切りで仕上げてきた担当の助手さんもこう証言していました。
本紙記者は、レース週の記事で、すばるステークスのレース後、鞍上の小島太ジョッキーがこんなことを口にしていたことも記しています。
この馬は難しい――
そのことは十分に伝わってきました。だから、若き天才が乗っているのにビミョーな評価のまま、イナリワンはゲートに入ります。単勝9・3倍の4番人気でしたが、武ジョッキーじゃなかったらおそらくオッズは10倍を超えていたはず。で、ゲートが開くと、すーっとポジションを下げていきました。
「前に出していくのは無理なんだな」
「引っかかっちゃうから」
それがよく分かりました。
そ~っと
じーっと
しているうちに位置取りは後方。1週目のスタンド前を通過し、向こう正面まで、本当に静かにしているのを見て、改めてファンは感じました。
やっぱりこの馬は難しいんだ――
しかし、難しい馬を御せるからこそ天才は天才なのでした。
そ~っと
じーっと
天才の魔法にかけられたイナリワン。体力も精神力もしっかり温存した地方競馬出身の雄は、直線を向き、ついにそのベールを脱ぎました。しかも、ド派手に。
「こ…」
「こんなに強いの?」
「こんなに…」
「こんなに強かったの?」
キャーキャー言っていたのは武豊を追いかける女性ファンだけ。長年競馬を見てきた人は、ボー然とするばかりでした。着差で見れば2着に5馬身ですから圧勝です。ニュース記事的に言えば
大舞台で見せた地方競馬の底力
大井のチャンピオンが中央を制圧
でしょう。馬自身も「地方出身はやっぱりたいしたことないな」という声に「てやんでい!」「なめんじゃねーぞ!」と闘志を燃やしていたに違いありません。しかし、何と言うのでしょうか、どうしても武豊ジョッキーに目がいってしまうのです。ファン目線を忘れない名アナウンサー・杉本清氏が、ゴール直後に口にした次の言葉が、まさに誰もが思っていたことでしょう。
「またまた武豊」
「恐るべし」
3週間前もシャダイカグラという馬で桜花賞を勝っていたので「また勝った」という意味なんですが、「また魔法を使った」という意味も含まれていました。桜花賞では出遅れたのにもかかわらず、すかさず内に潜り込み、馬群を縫うように上がっていって最後にしっかり差し切るという、まさに魔法のような乗り方をしていたのです。
「まただ」
「また炸裂した」
「そうじゃなきゃおかしい」
「連敗していた馬がこんな圧勝劇を見せるなんて」
「武豊マジックとしか思えない!」
メンバーが弱かったこともあるでしょう、地方競馬出身馬による21年ぶりの天皇賞制覇という偉業を成し遂げたものの、ぶっちゃけイナリワン自身の評価はそこまで上がりませんでした。
「本当に強いのか…」
「次を見てみないと分からない」
そんな中で向かったのは上半期の総決算・宝塚記念。
これまたビミョーな印。春の大一番・天皇賞を勝ったのに1番人気にならなかったのは、やはりファンからしてもビミョーな存在だったんだと思います。前年の皐月賞馬で、この年、中距離にターゲットを絞ってきたヤエノムテキの2・5倍から離され、GⅠを勝ったことのないキリパワーの4・9倍と差のない4・8倍…まさにその単勝オッズがビミョーな立ち位置を如実に表していたのですが、イナリワンが見せたのはビミョーからほど遠い横綱相撲でした。
天皇賞とは打って変わり、見事な先行抜け出し。完勝とも言える内容で、レース前に「中央で1勝しかしていないのに…」と単枠指定に困惑していた武ジョッキーも絶賛しました。
そして、イナリワンの強さを非常に分かりやすい表現で教えてくれました。
リプレーを見終えた記者もファンも、イナリワンへの見方を変えました。小さい体を目一杯使って前をとらえにいく迫力はなかなかのもので、気性の激しさがいい方に向いているのがよく分かります。何より、前述のように〝魔法いらず〟の勝ち方だったので、ファンは半年前のワクワク感を思い出しました。
「秋はすごいことになるぞ」
「地方出身馬同士で…」
「頂上決戦だ!」
そう、この春休んでいたオグリキャップが、ついにターフに帰ってくるのです。
VS芦毛の怪物
前年の有馬記念を勝った後、89年の上半期を丸々休んだオグリキャップは、9月半ばのオールカマーで復帰します。
持ったまま、ムチも使わぬ楽勝にファンはホッとしつつ、秋の快進撃を予感しました。で、次は天皇賞・秋かと思いきや、あまりにも体調が良すぎたオグリは間にもう一戦挟みます。伝統のGⅡ、毎日王冠。もともと出走を予定していたイナリワンと、本番を前に早くもぶつかることになるのです。
まずは、イナリワンの騎手欄をご確認ください。武豊ジョッキーではないのは、お手馬のスーパークリークが復帰したからで、まさにこの毎日王冠の日、関西の京都大賞典に出走を予定していました。自身に初のGⅠ勝利(前年の菊花賞)をプレゼントしてくれた思い入れのある馬ですから武ジョッキーの選択はある意味、当然です。同じ王道路線を進む中で、悪い言い方をすれば、手放されたとも言えますが、替わって鞍上に指名されたのが関東のトップジョッキー・柴田政人騎手だったので、イナリワンのファンになっていた人たちはニヤリとしました。
「最高だ」
「ぴったりじゃないか」
叩き上げの名手であり、常に全力の男であり、勝負師でもある柴田ジョッキー…地方出身の、エリートとは言えないイナリワンには、父も天才騎手だったサラブレッド的な武豊ジョッキーよりも、似合っている気がしたんですね。ただ、このときは仕上がりが八分程度で、陣営は弱気でした。東京競馬場を走るのも初めてで、気性に危うさを持つ馬の乗り替わり初戦というにも不安材料。また、柴田ジョッキーはレース前にこう漏らしていました。
スタミナがあるのは分かっていた反面、スピードが求められる1800メートルという距離を不安視しているようでした。それは記者もファンも同様で、単勝も3番人気にとどまります。1・4倍のオグリキャップに続いたのが3か月前の高松宮杯(2000メートル)で中距離向きのスピードと先行力を見せていたメジロアルダンで、その2・9倍からかなり離された9・0倍というオッズは、明らかに距離適性の差が反映されたものでした。そして、実際、イナリワンはスピードに対応しきれていないような後方2番手を進むのですが、こういう「厳しいかな」という状況でこそ、そして強い馬が目の前にいるときこそ、この馬が燃えることをまだファンは知りません。4コーナーを回り、外に持ち出したオグリキャップの内から馬体を並べていった柴田ジョッキーも、勝ちに行くというより、この距離でどれだけオグリとやれるか、どれぐらい差があるか、脚を図るような感覚だったと思われます。
「どうだ?」
「やれるのか?」
息をのむファンの前で持ったままでスーッと脚を伸ばしていくオグリ。「ついていくぞ」とばかり柴田ジョッキーがGOサインを出すと、イナリワンが小さい体をしならせて、グイグイ伸びはじめました。
現役最強馬オグリ
その内から並びかけるイナリ
残り200メートル地点から、2頭が一緒になって追い込んできます。スピードを上げて一気に差し切ろうとするオグリがあっさり先頭に立つと思っていたファンは、必死に食らいついてくるイナリの姿に驚いたに違いありません。しかも、それは悲鳴に変わります。なんと、柴田ジョッキーの猛ムチにこたえたイナリがオグリの前に出たのです。
「え?」
「オグリ!?」
既に競馬界のアイドルホースになっていたオグリ、休み明けを楽勝していたオグリがピンチに陥っていることを悟ったファンから声。
「オグリ!」
「オグリ!」
その背中で、柴田ジョッキーに負けず劣らず叩き上げのファイターである南井克巳ジョッキーのムチが飛びました。叱咤にこたえたのか、イナリの闘争心にこたえたのか、オグリの脚に力がこもります。
併せ馬
一騎打ち
デッドヒート
まさかこんなところで実現するとは思っていませんでした。
地方出身馬VS地方出身馬
火の出るような叩き合い
結果は…
ハナ差でオグリ。勝ったのは芦毛の怪物でしたが、後世に語り継がれるこの伝説の名勝負は、イナリワンの評価を一気に引き上げました。
「すげえ…」
「すげえじゃん!」
「本物だ!」
「イナリ、強いじゃないか!」
何より、レースぶりがファンの心を打ちました。小さい体で必死にアイドルホースに食らいつく姿から伝わってきたのです。ビンビンに届いたのです。
闘争心が
「負けるもんか!」が――
「ウマ娘」で言うところの「てやんでい!」に、体が熱くなるのを感じたファン。気性の荒さや難しさも、負けん気の表れだと知ると、欠点にも見えなくなります。こうして、地方出身だということも後押しし、イナリを応援する人は激増しました。その誰もが思いを馳せるのは天皇賞・秋。
「今回はオグリに負けたけど」
「次は分からんぞ」
再戦の舞台はGⅠ
地方競馬出身馬同士が中央の大舞台で再び相まみえます。
長所に転化できない欠点
毎日王冠のレース後、鈴木調教師は晴れ晴れとしていました。
柴田ジョッキーも笑顔。
ただ、当初は予定になかったのですから、オグリキャップも毎日王冠は万全の仕上がりではありませんでした。つまり、本番での上積みは必死。加えて、同じ日、武豊ジョッキーが選んだスーパークリークが、京都でレコード勝ちを収めます。これがまた強いのなんの。
さらに、本番が近づくにつれて、毎日王冠で3着だったメジロアルダンがどんどん調子を上げていきました。
役者は揃った
いや、揃いすぎた
そんな天皇賞・秋の馬柱がこちらです。
後に「平成三強」と呼ばれるオグリ、イナリ、クリークにしっかりと◎がついている、いかにも〝三つ巴〟の紙面は非常に貴重なんですが、他紙では、もうちょっとアルダンにも重い印がついており、イナリの印はもう少し薄かったと記憶しています。つまり、ファンからするとこのレースは四強。オッズはこうでした。
オグリキャップ 1・9倍
スーパークリーク 4・5倍
メジロアルダン 5・5倍
イナリワン 6・2倍
あれだけファンが増えたというのに、いったい、どうしたことか…。そして、オグリより一歩先に仕掛けた武豊ジョッキーのスーパークリークが、アルダンをかわし、芦毛の怪物の猛追をしのぎきったとき、イナリワンは…。
勝負に参加できず、6着に敗れたのには理由がありました。
食欲不振――
実は、この頃から、イナリワンはレースが近づくにつれ、カイバの量が減るようになっていたのです。毎日王冠の激走の反動もあったのでしょうが、天皇賞ウイークに入った途端、イナリワンが滞在していた東京競馬場の厩舎にこんな貼り紙が登場します。
「無断立ち入りご遠慮願います」
「大声を出さずにご静粛に願います」
普段とは違うピリピリムード。一部で「食欲不振で大ピンチ」と報じられた陣営はすぐに「そこまで騒がれるほどではない」と不安説を一笑に付したのですが、食いが細くなっているのは明らかで、最終追い切り後の柴田ジョッキーがこんなふうに話したことも報じられていました。
明らかに気にしています。で、レース前日、陣営が「450キロを切ることないだろう」と言っていた馬体重は、当日…
444キロ――
これが最後の伸びを書いた原因でした。人気が4番目にとどまったのも、カイバ不安説が報じられ、それがファンの頭にあったからかもしれません。で、困ったことに、天皇賞の後も、なかなか食欲は戻りませんでした。大食いで、馬体を絞るのに四苦八苦していたオグリとは真逆。天皇賞2着の後、マイルチャンピオンシップを勝ち、連闘でジャパンカップに挑むほど元気だったオグリとは正反対の状況になっていましたから、ジャパンカップの印もこうなります。
8番人気で11着--。闘争心を燃やしすぎて自らを追い込んでしまったのでしょうか、イナリワンの存在感は一気に薄くなります。対して、連闘で挑んだジャパンカップで世界レコードの2着という激走を見せたオグリは、強さ、人気ともに最高潮。1番人気で4着に敗れたクリークも、世界を相手に堂々としたレースを見せたため、評価は下がりませんでした。なので、揃って向かった年末に大一番・有馬記念での印はここまで極端なものになりました。
単枠指定となったオグリとクリークに印が集中しています。地方出身馬による頂上対決なんて盛り上がっていた2か月前がウソのよう。三強でも、四強でもなく、構図は完全に「二強」になっていました。単勝はオグリ1・8倍、クリーク3・1倍。イナリは大きく離れた16・7倍の4番人気にとどまっていました。アルダンは出走していないのですから3番目でも良さそうなものなのに、菊花賞で5着でしかなかったサクラホクトオーという3歳馬にまで人気で劣っているのですから、いかに食指が動く情報がなかったかが分かります。東京競馬場から美浦トレセンに戻り、食欲は戻りつつあるとは報じられていたものの、追い切りの動きも目立つものではなかったのです。
「イナリ…」
「どうしちゃったんだよ…」
空からは氷交じりの雨。ポケットに入れた手さえもかじかむ中、パドックでチェックしたイナリの馬体重はプラス2キロ。
「それだけか…」
白いため息ひとつ。時間が経つにつれ、どんどん暗くなっていく場内は、イナリを応援するファンの心そのものでした。何度確認しても、馬体重はプラス2キロ。
「それだけか…」
まさか、それだけで十分だったとは思いませんでした。少しでも体が動くようになれば十分、闘争心の塊にはそれだけで十分だったのですが、そんなことは分かりませんから、スタートし、1周目のスタンド前にやってきた馬群の後方にイナリの姿を見つけたとき、ファンは絶望的な心境になりました。各馬の吐く息が白く確認できるほど薄暗くなっていたものの、イナリのそれはどこか小さく、薄く見えます。先団を見ると、オグリが果敢に先行していました。すぐ後ろでクリークがぴったりマークしています。
「元気だなあ…」
「あれだけ激走続きなのに…」
向こう正面に入っても後方5番手を進んでいたイナリとの差をうらやましく感じていた私たち。勝負どころに差し掛かり、オグリは少し焦るように上がっていきました、4コーナー手前、先頭に並びかけます。すぐ後ろにクリーク。外からイナリも上がっていきますが、絶好の手ごたえでスーッという感じではありません。
「やっぱり苦しいか…」
「苦しいよな…」
苦しかったでしょう。
でも、天皇賞やジャパンカップよりはマシでした。
何とか食らいつく。
食らいつける。
あの2走より体は動く。
それだけで十分でした。
「イ、 イナリ…?」
4コーナーに向け、外から内へ斜めに切り込みながらスパートをかけた柴田ジョッキー。逃げ込みを図るオグリに外からクリークが並びかけるその外ではなく、空いた内を狙ったのもすごいですが、体調イマイチなのに食らいついていったイナリはもっとすごかった。そして、その闘志に競馬の神様がほほ笑みます。ワープするように一気に前との距離を縮めながら4コーナーを回ると、目の前にクリークがいたのです。激戦の反動が出ていたオグリを早々にかわし、短い直線で逃げ込みを図るクリークが目の前に!
負けるか…
負けるもんか!
忘れていました。この馬が気性の激しさを闘争心に変えられる名馬だってことを、前に強い馬がいるときこそ力を発揮する馬だってことを。そして何より、イナリ自身も悔しかったのでしょう。
地方代表として春にGⅠを2勝したのに
三強とか四強とか言われていたのに
どいつもこいつも…
俺のことを忘れるな!
薄暗い直線、小さい体、吐く息が大きく見えました。
食らいつき
食らいつき
食らいつく
まさに「てやんでい!」とばかりに一歩、また一歩とクリークに迫っていくイナリ、私たちは気が付けば絶叫していました。
「イナリ!」
「マサト!」
「差せ!」
冷凍庫の中のような競馬場内で、イナリを呼ぶ声が増えていったのは、オグリファンが追随したからかもしれません。クリークに早々にかわされてしまい、ついえたかに見えた彼らの希望、地方の意地、都会やエリートへの反抗心…それをもう一頭の地方出身馬が代わりにかなえようとしていたのです。オグリがダメならせめてイナリが勝ってほしい。中央の頂点に立ってほしい…。
「負けるな!」
「イナリ!」
「差せーーー!」
ハナ差でしたがハッキリと分かりました。
ナイター競馬のようだったゴール前
スポットライトに照らされたゴール前
イナリが前に出た瞬間、すべてがひっくり返りました。
消えかかっていたものがすべて戻ってきました。
地方競馬の意地
サラブレッドとしてのプライド
そして、もうひとつ。
年度代表馬!
そう、オグリでも、クリークでもなく、平成最初の年度代表馬はイナリワンでした。この有馬が、このタイトルがあるからこそイナリワンが「平成三強」と呼ばれるのだと、私は確信しています。同時に、オグリとクリークがいたからこそ、この有馬の名勝負が生まれたこと、そして、ライバル2頭がいたからこそ、イナリが「三強」にまで引き上げられたとも思っています。ウマ娘のイナリワンはこう言っていました。
「祭りは一人じゃできないんだからな」
祭りの後
完璧に乗り、完全な勝ちパターンだった武豊ジョッキーは有馬のゴール直後、きっとこう思ったでしょう。
「まさか」
でも、ハナ差でかわしていった馬を確認してこうも思ったはずです。
「そうか」
「そうだよな」
「イナリワンなら仕方ない」
自らが覚醒させ、その強さを、その闘争心をよく知る相手を、この天才ジョッキーはしっかりとライバルと認め、翌年の天皇賞・春に臨みました。イナリワン側から見て、これほど怖いものはありません。
前哨戦の阪神大賞典で62キロを背負って惨敗したものの、陣営の努力でしっかり体調を戻してきたイナリワンは単勝1・5倍のクリークの対抗馬筆頭として、6・0倍の2番人気に支持されます。実績からしても当然ですし、柴田ジョッキーも相手は1頭だと思っていたはずで、レースではクリークをピッタリとマーク。4コーナーで外から並びかけるのですが、武ジョッキーが延々と、しっかりとプレッシャーをかけてきました。どうしても外に弾かれるような形となったイナリは、必死に食らいつくものの、最後の最後まで交わせません。いや、交わせないように乗られてしまったと言ってもいいでしょう。
有馬のリベンジを果たされてしまったイナリ陣営は燃えました。
「宝塚記念でもう一度…」
しかし、残念ながら体調を崩してしまったクリークは回避となってしまいます。代わって、目の前に現れたのは…
安田記念を圧勝してきたオグリキャップ! 平成三強のうち2頭が単枠指定となったこのレースを前に、イナリは燃えに燃えたに違いありませんが、気合を入れ過ぎてしまったのでしょう。柴田ジョッキーが「クリークが出てこないのが残念だよ」と口にしたほど絶好の追い切りを見せたものの、その前後からカイバを食べなくなってしまいます。本紙にはそれを証明する陣営のコメントが載っていました。まずは金曜朝に鈴木調教師。
土曜朝は厩務員さん。
阪神競馬場に姿と現したイナリの馬体重は、マイナス10キロ。中央入り後、最低となる442キロの体はいつも以上に小さく見えました。ゲートが開いても終始進んでいかず、3コーナーで既に手ごたえが怪しくなったのを見て、ファンは惨敗も覚悟したはずです。
「イナリ…」
「さすがに厳しいか…」
それでも最後の最後までイナリは前を追いかけました。
食らいつき
食らいつき
食らいついた
その4着に、小さなド根性名馬にファンは確信しました。
「やっぱりイナリはすごい」
「カイバさえ食べれば…」
「体調さえ戻れば…」
「クリークだって」
「オグリだって怖くない!」
秋になり、脚部不安を発症し、引退となってしまったイナリ。ともに戦った三強のうち、同じく戦線を離脱してしまったクリークとは会えませんでしたが、オグリとは中山競馬場で会っていたかもしれません。イナリワンの引退式は、オグリが引退を劇的な復活で飾ったあの日の昼休みだったのですから。