メジャーから日本球界復帰、そして独立リーグの監督となって見えたこと【岩村明憲連載#10・最終回】
足首の痛みをごまかした後悔
2009年のWBCを連覇で終え、チームに戻ってきた僕を再び、試練が襲いました。
負傷が後の野球人生に重い負担となった
5月24日に行われたマーリンズ戦、8回の守備でした。投ゴロで二塁ベースカバーに入ろうとした僕に向かってきた一塁走者のクリス・コグランの激しいスライディングに遭い、転倒。左ヒザにもろに体重が乗った形となり、すぐに病院に運ばれました。
診断結果は「左膝前十字靱帯損傷」の重傷でした。そこまで44試合に出場し、打率も3割1分と好調だっただけに、ショックは大きかったですね。その後、プレーの写真を見る機会もあったのですが、明らかにコグランは僕に向かってきていました。
試合中に松井と話す岩村(09年5月、ヤンキー・スタジアム)
その後も、メジャーのプレーにおいて、ハードなアタックの対処法など聞かれることもあったんですが、正直、スパイクの歯を立てて向かわれてしまうと、よけることも難しく、どうしようもない部分があります。コグランとも話す機会はあり「少し考えたほうがいい」と戒めたんですが、どこまで伝わったのかは疑問ですね。
ともあれ、ケガは後に部分断裂ということが分かり、必死のリハビリの成果もあり、8月下旬の試合に復帰するなど、約3か月で実戦復帰を果たすことができました。
ただ今思えばですが、この時にもう少し左足首の検査をしておけば良かったという後悔があります。5月のケガの時に左足首の靱帯も痛めたのですが、その後実戦を重ねる中で足首が痛いのを我慢してしまいました。
もちろん、通訳、トレーナーにも訴え、薬なども使ったのですが、早期に復帰したい気持ちも強く、足首の痛みをごまかしてしまった。結果として、その後、スイング時に体重が乗らなかったり、ためを作れなくなったりと打撃面でも影響が出てきてしまいました。
この年は3年契約の最終年。僕自身も大事な年であることは重々、わかっていました。結果を求めるあまり、復帰までのプロセスをもう少し慎重にできなかったか。今でも少し後悔しています。
横綱・白鵬にチャンピオンリングを披露する岩村(09年11月、福岡)
オフにはトレードでパイレーツへの移籍が決まりました。慣れ親しんだタンパの地を去ることは本当に寂しかったです。地元紙に全面広告を掲載して、応援してくれたファンの方へ感謝のメッセージを伝えました。
その後、アスレチックスを経て、2011年に5年ぶりに日本球界に復帰しました。ちょうどその年から指揮を執ることになった楽天・星野仙一監督からは「最後にメジャーで納得する成績を残せなかったことは悔しかっただろう。そういう思いを持っている選手は大丈夫だ」と声をかけられ、勇気づけられました。
楽天入団会見に臨んだ岩村(10年11月、仙台)
さあ、これからまたひと仕事するぞ!と意気込んでいた矢先に、あの震災が起こりました。
東日本大震災で生き方が変わった
2011年、3月11日。東日本大震災が起きた時僕はチームに同行して、兵庫県明石の球場にいました。ロッテとのオープン戦に出場し、5回で交代した後に隣接する陸上競技場で走っていたところ、チームメートの松井稼頭央さんが走ってきて、僕のケータイを持っているんですね。今すぐ、家族に連絡を取れと、地震で仙台が大変なことになっていると伝えられました。
松井稼頭央(右)と話しながら練習する岩村(10年12月、神宮)
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