君はドリーム・マシンを覚えているか【プロレス語録#13】
マシーン、あるいはマシンといえば今も新日本プロレスで活躍するスーパー・ストロング・マシンが有名だ。
だが、マシンの初登場よりも2年早い1982(昭和57)年10月、全日本プロレスの「ジャイアント・シリーズ」に、ドリーム・マシーンなる謎のマスクマンが登場。一大旋風を巻き起こしていたことを覚えている人は少ない。
名前だけ聞くと遊園地の巨大遊具やゲーム機、または「モーニング娘。」のヒット曲を想像してしまうが、こちらのマシーンは190センチ、130キロの大男。その暴れっぷりから、当時「全米一の無法地帯」と呼ばれたテキサス州ダラス地区で多くの選手に対戦を拒否されたため、同地区のプロモーター“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリック氏の紹介を受け、全日本マットに上陸したといういわくつきの乱暴者だ。
マシーンは連日連夜の大暴れで、日本勢を震え上がらせる。気になる正体をめぐり全日プロ勢はけんけんごうごう。天龍源一郎が「マシーンのパンチ、キックは重くて速い。殴られると脳髄へズシーンとくる」と証言すれば、阿修羅原は「ラフならラフでこい!と覚悟を決めていたんですよ。そうしたらグラウンドの攻防から腕、足を決められて弓矢固めまで…」と意外なテクニシャンぶりに苦戦していた。
ほかにも石川敬士が「思い切ったラフ戦法は場数を踏んでいなきゃできないよね?」と推理すれば、ベテランのグレート小鹿は「どこかでこいつと対戦したはずだ」と首をかしげる。
立ってよし、寝てよし、さらにケンカ殺法にも強い、夢の万能機械の正体は、ケンドー・ナガサキ(桜田一男)といわれている。だがマシーンは本腰を入れる前に、ほどなくして全日本マットから姿を消したのだった…。
海外で大成功を収めた日本人選手といえばジャイアント馬場、ザ・グレート・カブキらが有名だ。米国内での獲得王座数となるとグレート小鹿(現・大日本プロレス社長)の右に出る者はいないと言われている。
1969(昭和44)年。小鹿はロサンゼルス地区で日本から来た大悪党、カンフー・リーとして観衆の憎悪を浴びる存在だった。その小鹿の最大のライバルだったのが、まだ“悪魔仮面”と呼ばれていた時代のミル・マスカラスだ。
今回の語録は10月24日(現地時間)、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムに7000人もの観衆を集め、王者・マスカラスが小鹿を挑戦者にNWA認定USヘビー級王座の防衛戦を行った後に発したひと言だ。
試合は1本目こそマスカラスがドロップキック6連発で先取したものの、2本目からは小鹿が本領発揮の反則連発で大荒れに。松ヤニを使った目つぶし、下腹部へのパンチでペースを握り、裸絞めで勝利する。
そして決勝の3本目。小鹿は反則オンリーの戦いぶりでマスカラスを痛めつける。かみつき攻撃から急所打ちで、ついにマスカラスは口から泡を吹いて半死半生に…。
そしてリングドクターを呼びつけた小鹿は、マスカラスにまだ意識があることを告げられ逆ギレ。ドクターとレフェリーにも暴行を加える。
小鹿のセコンド、ミスター・モトの指令で、サム・スティムボートら4人の選手がリングになだれ込み、小鹿を袋叩きにして、ようやく事態は収拾。試合は当然、小鹿の反則負けとなった。
※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。