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「ウマ娘」でもコールが!アイネスフウジンのダービーを「東スポ」で振り返る

 今年もダービーがやってきました。3歳馬の頂点を決める一戦は、有馬記念と並び、一般の人にもその名を知られる有名なレースで、毎年、多くのファンが東京競馬場を訪れます。コロナ前、2019年の入場者数は11万7538人。では、歴代のダービーで、最も入場者数が多かった年はどれぐらいの人が集まったと思いますか? 答えは驚異の19万6517人で、1990(平成2)年のことでした。今回は、場内で身動きが取れないほどだったというあの日の主役・アイネスフウジンを「東スポ」で振り返ります。熱狂の裏にあったのは、馬と人とのドラマ、競馬ブーム、そしてあの頃の日本――。ダービーがなぜ特別なレースなのかも伝われば幸いです。「ウマ娘」が、なぜ「プリティー〝ダービー〟」なのかも見えてくるかもしれません。(文化部資料室・山崎正義)

1989年

 デビュー前の調教で良い動きを見せていたアイネスフウジンは2番人気で新馬戦に出走しました。

 結果は2着。続くレースも2着となり、3戦目で勝ち上がります。で、4戦目に選んだのは朝日杯3歳ステークス(当時はまだ2歳を3歳と言っていました)というGⅠ。

 陣営としても「どのくらい通用するか見てみよう」ぐらいのチャレンジだったようですし、記者の注目度も高くはなく、単勝は11・5倍の5番人気。過去3戦ではなかなかのスピードを見せていたものの、アイネスフウジンの父シーホークが、天皇賞馬を2頭輩出していた、どちらかと言うとステイヤータイプの種牡馬だったことも、人気を押し上げない要因になっていたと考えられます。パッと見は、1600メートルが向いているようには見えなかったわけです。しかし、この馬には競馬における血統に大きな影響を与えるといわれる母の父・テスコボーイのスピード能力がしっかりと伝わっていました。ガンガン飛ばす逃げ馬に楽々とついていき、2馬身半差で完勝するのです。

 その勝ち方は〝伏兵の一発〟でも〝マグレ〟でもない堂々たるもの。しかも、叩き出したタイム1分34秒4というのは、「スーパーカー」と呼ばれた伝説の馬・マルゼンスキーによる「しばらく破られないだろう」という2歳レコードと同じでした。ファンは「なかなかの大物かもしれない」とワクワク。同時に、仲間とこんなおしゃべり。

「シーホークだからスタミナもありそうだし」

「来年のクラシックはこの馬が中心になるかもな」

 師走の競馬場には、たくさんの人がやってきていました。正直、かなり小粒なメンバーだったのに、場内は熱気に包まれていました。そこには次週への〝熱〟も含まれていたかもしれません。

「来週は有馬か」

「オグリで断然かな」

「楽しみだね」

 競馬場には若い人や女性が目に付くようになっていました。そう、ファンの会話に出てきたオグリキャップが、我が国に競馬ブームを巻き起こしていたのです。地方競馬・笠松からやってきた芦毛の怪物は、前年に中央に移籍すると怒涛の重賞6連勝。これまた連勝中だった〝白い稲妻〟タマモクロスと秋の天皇賞でぶつかり、大きな話題となりました。古馬になったこの89年は上半期を休んだものの、秋になってもファンの心を震わせる激戦を続けます。特にマイルチャンピオンシップから連闘で挑んだジャパンカップで世界レコードの2着に入ったときは誰もが声を枯らし、涙、涙、涙…。血統も地味な地方出身馬がエリートや世界の強豪をやってつけていく成り上がりストーリーは、日本人の大好物でもありました。

 実は「地方出身馬」というのは、競馬ブームを語る上で欠かすことができない要素です。日本における競馬ブームには俗に「第1次」と「第2次」があるのですが、オグリが牽引したのは第2次。で、これより15年ほど前、1973(昭和48)年ごろに起こった第1次競馬ブームの立役者(馬?)も、地方競馬出身のハイセイコーという馬でした。地方から東京に出てきて一旗揚げてやる!ではないですが、先ほども言った通り、日本人が感情移入しやすい物語なのでしょう。

引退式でファンに囲まれるハイセイコー

 ハイセイコーが中央入りし、国民的アイドルホースとなったことで、その年のJRAの入場人員は、前年の1270万人から一気に1470万人まで増えました。売り上げも4900億円から6600億円にアップ。その後、売り上げはジワジワと上がっていくものの、ブーム自体は落ち着き、年間入場者数は徐々に減少、1000万人を割るようになっていくのですが、88年に久しぶりに前年を上回ります。前述のオグリの中央入りとタマモクロスとの〝芦毛頂上決戦〟、そしてもうひとつのブームの〝火種〟…そう、デビュー2年目の天才・武豊ジョッキーがアイドル的存在になりつつあったのです。

 むさくるしいオッサンしかいなかったところに、武豊騎手を追いかける女性ファンがやってきて、競馬場の空気が変わりました。一気にブームが加速していくのですが、もうひとつ、後押ししたファクターがあります。

 バブル景気――

 アイネスフウジンが朝日杯を勝ったおよそ2週間後、日経平均株価が史上最高値をつけました。

 3万8957円――

 現在より1万円高いのもすごいですが、年初が3万165円だったこともすごいです。とにかく世の中に金があふれ、誰もが浮かれ、高いものや贅沢を求めるようになっていました。当然、馬券もガンガン買いますから、88年に2兆2067億円だったJRAの売り上げは、この89年、2兆5545億円にまで膨れ上がります(前年比115%)。そして、その勢いは全く衰えることなく一気に3兆円超え…それが1990年。アイネスフウジンは、加熱する〝バブリークラシック〟の主役として、3歳を迎えたのです。


1990年

 朝日杯から2か月後、アイネスフウジンは共同通信杯から始動します。目標は先とはいえ、調整は非常に順調で、仕上がりも上々。

 紙面では、管理する加藤修甫調教師の「朝日杯を勝ったGⅠホースがGⅢで負けられるかい」という強気なコメントが紹介されているだけではなく、中野栄治ジョッキーによるこんな話も。

「朝日杯のときは腰に疲れが出て控えめな調教しかできなかった。今度は万全…だから調子は数段上」

 というわけで、印も断然です。

 距離が伸びるクラシックを見据えて「控える競馬を試みるのでは?」という噂もあったのですが、スピードが違いました。ポンと先頭に立つとスイスイと逃げ足を伸ばし、持ったままで直線を向きます。あとは中野ジョッキーが後ろを見ながらステッキを軽く数発。最後は流す余裕を見せて楽勝するのです。

「モノが違う」

「この馬、ハンパじゃないぞ」

 改めて強さを確信したのはファンだけではありません。続く弥生賞(GⅡ)を前に、加藤調教師もさらに強気になっていました。

「一戦ごとにパワーアップしている。コズミぐせのある馬が、今回は何ともないし馬体もふっくらしていい感じだ」

「前走はまだ九分の仕上げだった。今回は満点に近いデキで出走できる。関西馬2頭やメジロライアンなんて、俺の眼中にはない」

 ご覧のように、アイネスフウジンの枠のみが1頭だけ。圧倒的な人気が予想される馬にだけ適用される単枠指定という扱いになり、単勝は1・9倍を指していました。結果は…。

 逃げたものの直線で伸びを欠き、4着。ただ、敗因は明確でした。

「予想以上に馬場が悪くて、ツメが全部芝に入っちゃってね。何回もバランスを崩してしまった」(中野ジョッキー)

 そう、不良馬場が苦手だったのです。加藤調教師もキッパリ。

「500キロを超す大型馬だから、バランスよく走れないとダメ。俺としては予想以上に走ったと思う。能力で負けたんじゃない

 記事には、2人の表情は明るかったとありました。つまり、本番では巻き返し必至。しっかりと調子も上がっていきます。

 追い切りの後、テレビのインタビューを受けた中野ジョッキーはキッパリ言い切りました。

「勝てます」

 本紙記者にはこう話したそうです。

「◎をつけてくれて大丈夫」

 枠順もロスのない1枠2番で、天候の崩れもなさそうなことから、アイネスフウジンは4・1倍という微妙な数字ながら1番人気に押されました。舞台は先行馬が有利な中山競馬場の2000メートル。当然、中野ジョッキーは逃げるつもりだったはずです。

「持ち前のスピードを活かせば負けない…」

 しかし、スタート直後にアクシデントが襲います。何と、左隣のホワイトストーンという馬がゲートが開いた瞬間、右に大きくヨレたのです。

「あっ!」

「危ない!」

 ファンが声を出すほどの斜行。目の前を横切られた形になったアイネスフウジンは、ブレーキを踏まざるを得ず、先手を奪うことができません。スピードがあるので、すぐにポジションを上げ、そのまま2番手を進むことになりますが、ロスは明らかでした。そして、GⅠでは、このちょっとしたロスが最後の最後に響きます。4コーナー手前で軽々と逃げ馬をかわして先頭に立ち、直線で粘り込みを図るのですが、ゴール前2メートルで3番人気(5・6倍)のハクタイセイという馬に差し切られてしまうのです。

 レース後、中野ジョッキーは悔しさをかみ殺しながら語りました。

「返し馬で勝つ自信があった。スタートで隣のホワイトストーンに横切られたので抑えたが…」

 正直、悲観する内容ではありません。不利があったのに、最後の最後まで粘っていますし、今、改めてレースを見ても一番強い競馬をしています。冷静に見て、巻き返しは必至。勝ったハクタイセイと、最後に豪快に追い込んできたいかにも東京競馬場向きの3着メジロライアンとともに「3強」でダービーを迎えるのが普通でしょう。血統的に距離延長は問題ありませんし、〝大物感〟だってほか2頭に負けていませんでした。しかし、ダービー当日、確かに3強ではあったものの、アイネスフウジンは、2頭から明らかに人気で後れをとります。単勝オッズは…。

 3・5倍 メジロライアン

 3・9倍 ハクタイセイ

 5・3倍 アイネスフウジン

 この差を生みだしたものは何だったのか。答えはそう、

 空前の競馬ブーム

 バブル

 それが生み出す

 高揚感

 でした。

 あの年のあの空気の中でファンが求めたものは、アイネスフウジンではなかったのです。


42日間に何があったのか

 皐月賞からダービーへ。その間はわずか1か月少々。日数で言えば42日間でしかありません。しかし、その間に、先ほども言った競馬ブームの立役者に、大きな動きがありました。まず、アイネスフウジンにも大いに関係のあるクラシック戦線が、にわかに騒がしくなります。皐月賞からおよそ10日後の4月26日、こんなニュースが飛び込んできました。


 何と、1冠目を制したハクタイセイの鞍上が武豊ジョッキーに替わるというのです。もともとハクタイセイは須貝尚介ジョッキーできさらぎ賞を勝った後、本番で南井克巳ジョッキーに乗り替わっていました。それが見事にハマったわけですが、実は南井騎手にはダービーで先約がいました。なので、皐月賞後、ハクタイセイの鞍上は元の須貝騎手に戻るとも言われていたのですが、競馬の世界というのはシビアです。前年、GⅠを4勝し、弱冠ハタチで全国リーディングを獲得した今をときめく武豊ジョッキーが空いているのなら、頼まない選択肢はありません。上記の記事の1行目にある通り、既に「スーパースター」となっていた騎手と皐月賞馬の新タッグは大きな話題になりました。そして、それはとんでもない可能性を秘めてもいました。

 アイドル騎手のダービー制覇

 史上最年少でのダービー制覇

 盛り上がらないわけがありません。しかも、この天才騎手は、乗り替わりが明らかになった3日後、スーパークリークで天皇賞・春を勝つのです。

 当時のスポーツ新聞で、競馬の結果(写真)が1面に載るなんて稀でした。それぐらい武豊ジョッキーが牽引する競馬熱はグングン上がっていたのですが、極めつけは2週後。何と、アイドルジョッキー武豊とアイドルホース・オグリキャップが初タッグを組み、安田記念を圧勝するのです。

 結果をリポートする紙面にはこんな記事が載っていました。

 東京競馬場には女性ファンが殺到し、黄色い声援が飛び交ったというのです。女性の入場者数が前年比193・6%というにも数字も驚かされますが、この状況で、武豊ジョッキーのダービー制覇を期待しない空気が充満しないわけがありません。同時にそれは、若さを待ち望む空気でもありました。実は当時、武豊ジョッキーだけではなく、20代前半の他のジョッキーも躍進していたのです。この前年(89年)、関西では、武豊騎手の1歳年上である松永幹夫騎手が全国3位に入り、一気にトップジョッキーの仲間入りを果たします。さらに関東でも、柴田善臣騎手が7位に入り、横山典弘騎手もメキメキ頭角を現していました。この原稿に何度も登場し、クラシックの主役の一頭でもあるメジロライアンは横山ジョッキーが主戦です。主戦を任せられるだけの存在になっていたとも言えます。競馬界の流れは完全にこうでした。

 ヤングの台頭――

 世代交代――

 競馬ブームを支えた若者たちからすればこうです。

「同世代頑張れ」

「おじさんなんてやっつけろ」

 バブルも影響していたでしょう。世の中が欲しがるのは古臭いもの、ダサいものではありません。求めるのは

 新しいもの

 カッコイイもの

 勢いのあるもの!

 ヤングジョッキーはその象徴でもあったのです。そして、その中心となる21歳・武豊ジョッキーが皐月賞馬に乗ってダービーの舞台に立ちます。23歳の松永騎手も柴田騎手もしっかりとお手馬を確保して参戦。22歳・横山ジョッキーも3強の一角として堂々と人気馬にまたがるのです。スポーツ新聞各紙も、この流れに乗っかり、彼らに注目した記事を次々と載せていきました。ダービーウイークの水曜日、本紙の1面は武豊ョッキー。

 他の日にも、柴田ジョッキーや横山ジョッキーに注目した記事が掲載されており、こうなるとそろそろ皆さんもお気づきかと思います。そう、アイネスフウジンの中野ジョッキーの影はどんどん薄くなっていました。37歳の中堅騎手です。正直、地味でした。腕は確かでキャリアもありましたが、失礼ながら、ファンからすると、若さに対し「ドンとこい」と言えるまでの壁には見えなかったのです。それが当時の空気とあいまって、アイネスフウジンの人気は3強の中で最も下になったような気がします。一番下だとしても、本来ならもっと僅差だったはずです。でも、単勝オッズは前述のように、少し差ができていました。あくまで3番手で、アイネスフウジンと中野ジョッキーはダービーのゲートに入ったのです。

 既に午前中の時点で、東京競馬場に向かう駅では「これから競馬場に向かっても入場できません」という放送が流れたともいうあの日、場内は人であふれていました。パドックに馬を見に行こうとしても進めず、馬券を買うには長蛇の列。それがまた「お祭りに参加している」という気持ちにさせたともいいますが、観戦に適した状況とは言えません。でも、それでも誰もが高揚していました。

 バブル列島の中でも最もバブルな場所

 高まりに高まった若さへの期待

 その中でファンファーレが鳴り、22頭がいっせいに第1コーナーに向かっていきました。最も勢いよく飛び出していったのは19番ハクタイセイの武豊ジョッキー。中団から差し切った皐月賞とは違い、積極的に先行していく姿には若さがみなぎっているように見えました。一方、その内、12番のアイネスフウジンは必死になってダッシュしているようには見えません。中野ジョッキーは他の先行馬の出方をうかがうように、ゆっくりと先頭に立ちました。

「果敢」とはほど遠いあの姿にヤキモキした人もいたかもしれません。向こう正面で一時は5馬身ほどリードを取ったものの、馬場の悪い内を避けて走っているうちに3コーナーではロスなく内を回って2番手に上がってきたハクタイセイがすぐ後ろに迫っていました。その馬体が白っぽい芦毛だったので、ファンにもすぐ分かります。競馬を始めたばかりの人にも、女性にも分かります。

「きてるきてる」

「2番手だ」

「キャ~♡」

 アイドルジョッキーの徹底マーク。4コーナーを回りながらハクタイセイがアイネスフウジンに並びかけようとしていました。そして、その後ろ、中団で待機していた横山ジョッキーのメジロライアンが外を回って上がってくるのが見えました。

 新しいもの

 カッコイイもの

 勢いのあるもの

 19万6517人から地鳴りのような大歓声が起こりました。あのときのあの手ごたえ、あの脚色、今、見返しても完全に「できた!」です。競馬場内でも、ウインズでも、テレビの前でも誰もが確信したと思います。

「21歳の武豊か」

「22歳の横山典弘か」

「どっちも勝てば最年少記録!」

 競馬ブームの熱狂

 バブルの高揚

 その空気が望んだ結果に向けて

 残り400

 残り300

 残り200

 残り100

 残り50

 残り…

 残り…

「うおーーーー」

「きゃーーーー」

 雄たけびと悲鳴の中で迎えたゴールの結果は、実に分かりやすいものでした。誰が見ても分かるものでした。でも、誰もが、確認し合いました

「ライアン?」

「武豊?」

「いや…」

「アイネスフウジンだ」

「逃げ切りだ…」

「逃げ切っちゃったよ…」

 どよめき、ざわめき。望んだものとは違う結末に戸惑っている人が多かったことを証明する不思議な空気が流れました。

 10秒

 20秒

 30秒

 熱を帯びたままの静寂。

 40秒

 50秒

 60秒

 誰かが口にした「ダービーレコードだ」「1秒も更新してる…」という声で、徐々に正気を取り戻したファン。彼ら、彼女らは、クリアになりつつあった脳内で、アイネスフウジンのレースぶりを再生しました。それは最近競馬を始めた若者でも、まだまだ競馬がなんだとも分かっていない女性でも、理解できるものでした。

 長い距離を

 長い直線を

 最初から最後まで

 先頭で走り切った――

 実にシンプルでした。簡単でした。

 誰が速いのか

 誰が強いのか

 誰が一番なのか

 ただただ、それを競い、勝利を目指す。

 70秒

 80秒

 90秒

「もしかして…」

「競馬って…」

 誰もが心の底でそのスポーツ性に気づきました。それぐらい、分かりやすかった。競馬の競技性を浮き彫りにするには、それぐらい逃げ切りというのは分かりやすかったのですが、それだけじゃない気もしました。自分たちの中で大きくなってくる興奮の理由が、他にもある気がしたのです。でも、その正体が分からない。分からないのですが、震えが止まりませんでした。

 俺たちは

 私たちは

 すごいものを見たんじゃないか?

 空気が変わりました。19万6571のその自問自答が、空気を変えました。カッコイイものとか、勢いのあるものとか、バブルっぽいものとか、そういうものでは得られないものを得たことに気付いた人々の心が、空気を変えたのです。

 すごいものを見た。

 とんでもないものを…

 目の前で…

 ゴールから100秒後、勝者が1コーナーに姿と現しました。

 一番になった馬

 一番になったジョッキー

 逃げ切りが難しいとされるダービーで先頭に立った覚悟

 自分のペースを守り、若き力をはね返したおじさんの意地

 勝者に贈るべきは何なのか、人間は、瞬時に判断しました。いや、自然と声が出ていました。

 ナ・カ・ノ!

 ナ・カ・ノ!

 ナ・カ・ノ!

 府中にこだました伝説の中野コール。それは競馬がスポーツになったことへの祝福の声だったのかもしれません。そしてもうひとつ、忘れてはいけない要素、あの場にいた彼ら彼女らが分かるようで分からなかった興奮の理由を挙げさせていただきます。誰もが自然とコールをした理由、それは…

 ダービーだから

 東京優駿(日本名)だったからです。

 このレースの持つチカラは、とてつもありません。

 字面だけなら「3歳馬のナンバーワン決定戦」です。時期で言えば、サラブレッドが本格化する前。人間で言えば高校生ぐらいが戦っていることになります。なので、「最強馬決定戦」と呼ぶには無理がありますし、どんなファンにも、競馬を始めてしばらくたつと、「どうしてダービーはあんなに重要視されているの?」と思う時期もあります。それはダービーが天皇賞や有馬記念よりメンバー的にもレース的にもレベルが上になることがないと分かるからです。でも、もう少し競馬をやると見えてきます。

 ダービーのすごさが。

 ダービー馬のすごさが。

 まず、すべてのサラブレッドがそこを目指してデビュー、いや、生産されると言っても過言ではないほどの存在であること。「ウマ娘」のアイネスフウジンもゲーム内でこう言っています。

「ウマ娘に生まれたからには目指す称号はたった一つです」

 全馬が目指すからこそ出走へのハードルは高いです。同じ年に生まれたおよそ7000頭の中で、あの年なら22頭、今なら18頭の狭き門に入るのは至難の業。応援していた馬が故障したり、ハナ差で出走権を逃すのを目にすることで、強いだけじゃたどりつけない場所だというのが分かってきます。

 ガラスの脚を持つサラブレッド

 調子に波があるサラブレッド

 ちょっとしたことで結果が変わるレース

 そんな中で順調に3歳春を迎え、ダービーに出ることは奇跡なのです。ましてや勝つなんて、もっと奇跡なのです。

 奇跡の場

 奇跡の瞬間

 そこに居合わせた奇跡を感じるから、ファンは高揚するのです。そして、奇跡の勝者を目にし、もう一度、このことに気付き、再び興奮するのです。

 一生に一度――

 出走するサラブレッドにとってはもちろん、応援するファンにも、「今年のダービー」は2度とやってきません。だから人はダービーを観に行くのです。ライブで観ようとするのです。そこには同じ思いでやってきたたくさんの同志が待っています。

 

考察とその後

 改めて振り返っても、やはりあれはアイネスフウジンだからこそ巻き起こせたコールだったように思います。武豊ジョッキーを応援していた若者も納得するしかない逃げ切りだったこと。それが競技性を浮かび上がらせたこと。ダービーだったこと。そしてもうひとつ、若者に囲まれ、競馬場で肩身の狭い思いをしながら「俺たちだってまだまだ負けんぞ」と中野ジョッキーの馬券を握りしめていたおじさんたちをも声を上げたからこそ、単なる歓声がコールになったのではないでしょうか。競馬の神様は、競馬を長年支えてきたファンも大切にしようと考えたのかもしれません。

 なお、空前絶後の盛り上がりを、翌日の本紙はしっかり伝えています。まず、裏1面に大きく写真。

 競馬面はこんな感じでした。

 涙のダービー制覇となった中野ジョッキーのコメントも載っています。

「増沢さん(ストロングクラウン)が行くと思ったが行かないので自分の判断で逃げた」

 スタートからガンガンいく予定はなく、後年、本紙のインタビューに答えたところによると、この日はただひとつ「自分の競馬をする」ことだけを考えていたそうです。アイネスフウジンは追って切れるタイプではなかったので、他人に合わせてスパートするのではなく、どこかでスピードを上げていく競馬をしようと思っていた。それは逃げながらでもいいし、最後方からでもいい。誰にも邪魔されずに速度を上げていくレースをしようと、ただそれだけを考えていたとか。大舞台でも舞い上がらず、とにかく自分の馬が一番力を発揮しやすいようにする。年齢とキャリアを重ねた騎手だからこその乗り方でした。だからこそ、レース後にこんなコメントを残したのでしょう。

「馬を信じ切って勝てたのが何よりうれしい」

 その思いにこたえたアイネスフウジンは、全精力を使い切り、レース後、ふらふらだったそうで、最後の力を振り絞ってスタンドに戻ってきたときに、中野コールを聞いたことになります。そして、このレースでアイネスフウジンの脚は限界に達し、秋に復帰を目指したものの、二度とターフに戻ってくることはありませんでした。

 1990年5月27日

 日本競馬史上最も多くのファンが集まったあの日

 あのダービーを勝つために生まれてきた

 アイネスフウジン

 あなたがあの日生み出した一体感は、年末、オグリコールとして中山競馬場にこだまし、コールは日本の競馬が誇る文化となりました。コロナでコールは拍手になりましたが、今でもゴール後、誰もが心の中で馬の名を、騎手の名を叫んでいるでしょう。

 勝者を称えるために。

 競馬に、

 スポーツに、

 奇跡に感謝するために。

 さあ、あなたが勝ったダービーが、今年もやってきます。

 

おまけ1

 あの日の大混雑をきっかけに翌年からダービーは当日入場券発売を行わず、前売り券方式になりました。それでも90年代のダービーは本当に身動きが取れないほどだったのを覚えています。その90年代は競馬ブームが続き、97年には歴代最高の年間売り上げ4兆6億円を記録します。ダービーだけではなく、ウインズ(場外馬券売り場)もとにかく混んでいて、GⅠになると、ビルの外まで行列ができ、馬券を買うのに1時間以上かかることもありました。


おまけ2

 せっかくなのでアイネスフウジンがダービーを勝った1990年を振り返ってみましょう。平成で言うと2年です。

 世界的には何と言ってもフセイン大統領のイラク。8月にクウェートに侵攻したことで、翌年1月からの湾岸戦争につながっていきます。スポーツ紙ではありますが、夕刊娯楽紙でもある本紙はニュースを速報しつつ、様々な形でフセイン大統領について報じました。

 12月にはイラクに残された邦人(人質)を、参院議員だったアントニオ猪木氏が〝解放〟。その行動力が称賛されました。

 国内では、現在の秋篠宮様が紀子様とご結婚。

  プロ野球では、後に大リーグで大活躍する野茂英雄でデビューし、〝トルネード旋風〟を巻き起こします。4月末には当時の日本タイ記録となる1試合17奪三振を記録。

  レコード大賞はアニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌とした大ヒットした「おどるポンポコリン」でした。


 「〇〇がダービーを勝った年はさ~」という会話ができるのも、競馬ファンの特権ですよね。ちなみに本紙的には、アイネスフウジンが勝った年は「人面魚」の年です。6月に1面で報じると大きな話題に。人の顔をした鯉がいる山形県のお寺に連日1000人以上が訪れる大フィーバーとなりました。そんな1年を締めくくる年内最終号はこんな1面です(笑い)。

  基本はエンタメ、競馬はガチ。それが「東スポ」で、おかげさまで昨秋にスタートしたサイト「東スポ競馬」も好評です。今週はダービーだけあって様々なキャンペーンやプレゼントもやっていますので、まだの方はぜひ一度のぞいていただければ幸いです。



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