「旭化成」の真新しい柔道着に身を包みつかんだ柔道日本一【坂口征二連載#5】
ヘーシンクvs坂口!世紀の初対決は小差の判定負けだったが…
金メダル3、銀メダル1で終わった東京五輪(1964年10月)。無差別級代表の神永昭夫先輩が“オランダの怪物”アントン・ヘーシンクに押さえ込みで敗れ、日本柔道の悲願「打倒ヘーシンク」は成らなかった。
神永先輩、そしてコーチ陣も「征二、次はお前がヘーシンクを倒せ」と口を揃える。私も「次」に向けて覚悟を決めていた。
ところがだ。東京五輪が終わって1週間もたたないある日、東京五輪のため来日した外国勢と、日本各地の柔道家による国際親善試合が組まれたことを伝えられた。
私の郷里・福岡の九電体育館では、九州出身の柔道家と、オリンピック代表選手との対抗戦だ。私の対戦相手はヘーシンクに決まったという。
突然の出場要請にも驚いたが、いきなり因縁のヘーシンクと戦うことになったのにも驚いた。試合の準備もそこそこに福岡へと戻り、ヘーシンクとの初対決に備えた。
九電体育館は超満員。ヘーシンクの強さ、人間的なすごさは畳の下から間近で目撃していたのだから知っている。ヘーシンクに対して「神永先輩のカタキ」とまでは言わないものの「いっちょ、やっちゃるか!」みたいな意気込みで立ち向かっていった記憶がある。
試合は、お互いの技が決まらないまま時間が過ぎていく。ヘーシンクに投げられはしないが、ヘーシンクを投げることもできない。場外をめぐる攻防で審判から注意を与えられたことがたたり、小差の判定負けに終わった。まあ、貫禄負けというやつだろう。
つい1週間ほど前、東京五輪で金メダルを獲得した選手と互角の戦いをしたワケだから、地元の先輩後輩や、九州の応援団は「よくやった」と声援を送ってくれた。
ただ神永先輩をはじめ、周囲から「次はヘーシンクに勝て!」と言われていた私本人としては、改めてヘーシンクの強さを思い知らされた感じだった。互角に戦うことはできても、この選手を投げ飛ばして勝つことは、相当に困難だと…。
11月。大阪で開催された全日本学生体重別選手権では重量級で危なげなく優勝。学生最後の試合で有終の美を飾れた。
ここから卒業までは、つかの間の学生生活を楽しむつもりだった。髪を伸ばし、学生服を脱ぎ捨て、スーツを着ておしゃれを楽しんだりもした。マージャンやパチンコを覚えたのもこの頃だ。連日連夜、飲み歩き、遊び歩いた。道場での練習は、まあチョコチョコってな感じでOK。これまでの苦しく厳しい柔道漬けの生活がウソだったかのように、楽しい大学生活だ。
ところがだ。大学4年の私にとって、最大の難敵は「卒業」だったのだ。ある意味、ヘーシンクよりも強敵だ…。
大学2年で東京五輪の強化候補選手に選ばれて以来、練習と合宿に追われ、ほとんど授業に出席していなかったツケがここで回ってきた。
東京五輪に出場しなかった私が「東京五輪の後始末」に追われることになる――。
〝あの手この手〟を駆使してなんとか卒業にこぎつけた
1964(昭和39)年の暮れ。私は授業の出席日数がまるで足りず「このままだと大学を卒業できない」という大ピンチに直面していた。
実際に合宿やら練習でロクに授業には出ていなかった。そろそろ、まずいんじゃないか?という予感はあった。
東京五輪の無差別級決勝戦後、オランダのアントン・ヘーシンクに敗れた神永昭夫先輩から「征二、次は頼んだぞ」と言われたことは前述した通りだ。これが映画やドラマならば、とても重要な1シーンとなるだろう。
ところが私ときたら、ヘーシンクの強さを実感しつつも「それより、オレは大学卒業できるのかな…」なんて考えていたのも現実だ。日本柔道の悲願「打倒ヘーシンク」も大事だが、まずは目の前の現実問題を片付けなければ始まらない。
留年はできない。なぜなら大学3年の秋には、もう就職先が決まっていたからだ。当時は柔道に限らず、実業団スポーツが花盛りの時代。富士製鉄や東レ、帝人などからも、お誘いはあったが、私は旭化成のお世話になることに決めていた。
富士製鉄には明大の先輩がワンサカといる。それで何となく敬遠し、当時、よくお世話になっていた先輩のいた旭化成に決めた。旭化成の柔道部が宮崎県延岡市にあったことも大きな理由だ。やっぱり将来は郷里の九州へと帰ろうという意識が強かった。
東京・有楽町の旭化成本社に行ってあいさつし、人事部長と昼ご飯を食べて「ハイ決まり」という感じだ。
就職が決まっていながら、卒業のメドが立たないのだから締まらない話だ。
私は朝から夕方までまじめに教室に顔を出し続け、各教科の友人たちに頭を下げ、メシをおごってノートを借りたり、補習を受けたりの日々だ。本番のテストでも、あの手この手を駆使して何とか卒業にこぎつけた。“あの手この手”の詳細とは…まあ、今と比べれば、何事も大らかな時代だったということだ。
いざ卒業が決まると、これまた「つかの間の学生生活(柔道は抜き)」がいとおしくなる。当時、明大の卒業式は千駄ヶ谷の東京体育館で行われていたのだが、卒業式前夜も酒を飲みまくり、二日酔いで卒業式は欠席…。結局、入学式も卒業式も体験しない大学生活だった。後でイソイソと教室に出向き、小さくなって卒業証書を受け取ったものだ。
4年間、柔道漬けの日々を過ごし、お世話になり続けた澄水園(赤羽の母子寮=明大柔道部員はそこで住み込みの手伝いをして給料をもらいつつ、合宿所として使用していた)の鵜目栄八先生にごあいさつして東京を離れ、延岡へと向かった。
社会人1年生。私の勤務先は旭化成レーヨン工場・勤労課だ。4月1日に入社式に出席すると、新人研修も受けないまま、すぐに東京へとトンボ返りとなった。5月に開催される全日本選手権のためだ。それまで蔵前国技館や東京体育館で開催されてきた全日本選手権は、昭和40年から日本武道館で開催されることになった。
半年前、神永先輩がヘーシンクに敗れた日本武道館に再び乗り込む。今度は選手として――。
社会人1年目ついに柔道日本一に!
昭和40(1965)年4月。社会人1年生として、旭化成レーヨン工場勤労課(宮崎・延岡)に配属された私だったが、すぐに東京へトンボ返り。5月1日から始まる全日本選手権のためだ。
御茶ノ水の明治大学柔道部道場で練習に入る。前年、決勝戦で神永昭夫先輩に敗れ準優勝していた私は、神永先輩が出場を取りやめ、猪熊(功=東京五輪重量級金メダリスト)さんが関東予選で右ヒザを負傷したことなどもあり、優勝候補に挙げられていた。
胸に「旭化成」と描かれた真新しい柔道着に身を包み、東京五輪以来の日本武道館に出陣だ。
猪熊さんは最終日を前に棄権が決定。初の日本武道館開催となった全日本選手権は、新世代によるNo.1決定戦といった様相を帯びてくる。
トントン拍子で予選を勝ち上がり、2年連続で決勝に進出。決勝戦の相手は松阪猛さん(大阪府警)だ。
左の払い腰が豪快に決まり、これで一本を取ったと思いきや、惜しくも場外…。結局、勝負はもつれにもつれ延長3回まで突入。積極的に攻め続けたことが功を奏し、判定で私の勝利が告げられた。
柔道日本一。郷里・久留米の深谷道場で柔道を本格的に始めてから8年、ついに日本柔道界の最高峰へ手が届いた。同時に10月にブラジル・リオデジャネイロで開催される第4回世界選手権の重量級代表の座も決定的となった。
入社直後に、天皇杯を手に延岡に帰ることができたのは何とも幸運だった。これからお世話になる会社に対しての面目も立つ。改めて独身寮に入った私は、本格的に社会人生活をスタートさせることになる。
今では、なかなか考えづらいことだが、当時は日本のトップクラスの運動選手も、合宿や試合の時を除けば、ちゃんと勤務先の土地に在住するのが普通だった。当時の旭化成には、バレーボールやマラソンなど各競技のトップクラス選手が在籍していたものだ。
社会人となった私は、まず早朝6時ぐらいに目を覚ますと、標高251メートルの愛宕山を頂上までランニングする。そして朝7時半から午後3時半まで工場で勤務。午後5時から夜まで道場で柔道のけい古に励むというスケジュールだ。
本音を言えば10月の世界選手権を控え、練習相手に事欠かない東京に勤務したい気持ちもあった。だが、社会人となった以上、私個人だけでなく旭化成というチーム全体を強くしていくという役目も重要だ。
地方在住となり、練習相手が限られてくると、どうしても「お山の大将」になってしまう。そんな私の不安を見越してくれたのか? ありがたいことに会社は何かと理由を見つけては出張扱いで、私を東京に遠征させてくれたものだ。東京に着くと、時間を惜しみ母校の明大や警視庁の道場を訪れ練習に励んでいた。
ブラジルで日本柔道の悲願「打倒ヘーシンク」を果たす。それが全日本王者となった私の使命だった――。
日本柔道界の威信かけブラジルでヘーシンクと激突
昭和40(1965)年。全日本柔道王者となった私に課せられた使命は一にも二にも“オランダの怪物”アントン・ヘーシンク(東京五輪無差別級金メダリスト)を倒すことだ。
前年、東京五輪の無差別級で金メダルを逃した雪辱を、一刻も早く果たさねばならない。柔道界全体に、そういった焦りの空気が蔓延していた。
「打倒ヘーシンク」の舞台は9月14日からブラジル・リオデジャネイロで開催される第4回世界選手権に定められた。
5月の全日本選手権で初優勝した私と松永満雄さん(高知県警)が重量級(80キロ超)代表、逆に東京五輪の重量級で金メダルを獲得した猪熊功さんが無差別級代表に回った。
ヘーシンクが重量級と無差別級の両方にエントリーしてくるのは確実。体格の大きい私と松永さんが重量級ならではの「力の勝負」でヘーシンクに挑み、小柄な猪熊さんはヘーシンクとの身長差(25センチ)を生かし、得意の背負い投げでヘーシンク撃破を狙うという作戦だ。
重量級と無差別級における二段構えで「打倒ヘーシンク」に挑むことになる。
大学3年時のソ連遠征に続く2度目の海外遠征。この時代、地球の裏側・ブラジルはまだ遠かった。
羽田空港を出発した飛行機は、まずロサンゼルスに到着し、そこからメキシコ市を経て、ようやくブラジルへと到着した。気候は暑くもなく寒くもなく、予想以上に快適だ。
9月14日(現地時間)の午前。抽選のため会場となるマラカナージョ体育館に行くと、そこではすでにヘーシンクが汗を流している。オランダ選手団の若手選手のような感じで、後にプロレスのリングで因縁浅からぬ関係になるウィリエム・ルスカがいた記憶がある。
日本陣営に緊張が走る中、組み合わせの抽選が行われる。順当に勝ち進めば、まずは私が準決勝でヘーシンクと対戦することとなった。
東京五輪直後の親善試合で福岡・九電体育館で対戦し、判定負けを喫して以来、11か月ぶりの対戦だ。
重量級1回戦。私はフランス代表のイブ・レイモンと対戦して勝利。ヘーシンクはニュージーランドの選手を一蹴し、予想通り勝ち星を重ね、予選を突破していた。
ついに迎えた準決勝。畳の上でヘーシンクと対峙する私、そして日本選手団に緊張が走った。予選では6分だった試合時間も、準決勝からは10分に設定されている。
この10分間で、私がヘーシンクを倒すのか、それともヘーシンクが私を倒すのか? 審判の「始め!」という声が体育館内に響き渡った――。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。