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吉村から学んだこと「自分に自信があれば常に堂々としていられる」【駒田徳広 連載#5】

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ストイックなまでの王さんの厳しさを受け継ぐのも「巨人の伝統」だ

 5年目のシーズンとなった1985年、ボクは1年間通っていた荒川道場をやめることになった。将来のホームランバッターとして期待してくれた王監督に応えることができず、一本足打法を断念したのだ。自分自身の中には「ホームランバッターにはなれない」という気持ちがあったんだと思う。その要因となったのは「ボクは作られた左打者だから」という意識だった。

王監督からマンツーマンで指導を受ける駒田氏(85年、多摩川グラウンド)

 実は中学1年生の秋まで右打ちで、パワーは右打席の方があった。ファン感謝デーの余興の試合で右打席に入り、中畑さんからフェンス直撃の一打を打ったこともあるぐらいだ。それでも中学の監督に「左で投げているんだから左で打て」と言われてから左打ちに。もし、高校から右でも打つ練習をしていれば、大型スイッチヒッターになっていたかもしれない。

「作られた左打者」という気持ちが心のどこかでブレーキとなり、王さんの期待を裏切ることにつながってしまったのだと思う。王さんは「自分で決めたことは責任を持ってやり遂げろ」とボクの決断を認めてくれたけれど、その一方で「あれだけの素質があるのにもったいない」と話していたそうだ。

 王さんの言葉で今でも印象に残っている言葉がある。

「ホームランを打つ才能がある選手が、その才能を伸ばす努力をしないのは怠慢だ」

 だから王さんはボクがいくら努力して3割を打ったとしても「それは努力じゃない。安易な方へと逃げているだけだ」と、ミートを心がけるバッティングには納得してくれなかったと思う。

横浜・駒田とダイエーの王貞治監督(95年3月、下関)

 あれはボクが横浜に移籍して、もう引退間際のことだった。王さんに「お前の力ならまだまだ40本は打てると思うんだけどなあ」と言われたことがあった。その時は「ああ、ボクは最後まで王さんに満足してもらえる選手にはなれなかったなあ」と切ない気分になったものだ。

 そんな王さんは今年、胃がんに倒れながらも来年もソフトバンクで指揮を執る決断をした。ボクは王さんを喜ばせることはできなかったが、ソフトバンクの選手たちにはとにかく「才能を伸ばす努力」を心がけて王さんを喜ばせてほしいと思う。

06年の巨人コーチ陣、後列左から村田真一、篠塚和典、斎藤雅樹、岸川勝也、伊藤博、前列左から近藤昭仁、原辰徳監督、吉村禎章(05年10月、東京ドームホテル)

 このことはもちろん巨人にも当てはまる。原監督、篠塚コーチ、吉村二軍監督らは王さんの姿を間近で見て、厳しい指導を受けて育ってきた。妥協は許さず「才能を伸ばす努力」を選手たちに求めてほしい。ストイックなまでの王さんの厳しさ。それを受け継いでいくのも巨人の大事な「伝統」だと思うから。

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