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前進するためには〝後退〟も必要だ【野球バカとハサミは使いよう#24】

チョロQ方式で開花した田中幸雄

 元日本ハムの田中幸雄といえば、1990年代のパ・リーグを代表する強打の遊撃手だ。07年に引退するまで、現役22年間で通算2012安打、287本塁打、1026打点を記録するなど、日本ハムの主砲として長く活躍した。

 一方、遊撃守備は若いころは決してうまくはなく、初めてレギュラーを獲得したプロ2年目にはリーグワーストの年間25失策。強肩は魅力だったが、確実性には欠けていたのだ。

 しかし、田中はそこから努力を重ね、3年目の88年にゴールデングラブ賞を初受賞すると、90年にも受賞。守備に関しても着実に名遊撃手になりつつあったのだが、残酷なことに、神様はここで田中に試練を与えた。

田中の華麗な守備(1991年5月、平和台)

 92年の春季キャンプで、自慢の右肩を故障したのだ。これは田中にとって、実に痛い出来事だった。地道な努力によって、ようやく守備力が向上した矢先に、一番の武器であった強肩に傷がついたのだ。

 しかも、この故障によって田中は92年のシーズンを棒に振り、1年間のリハビリ生活を強いられた。そして、翌93年に復帰を果たしたものの、かつての強肩は鳴りを潜め、外野手にコンバートされてしまう。遊撃手・田中はこれで死んだ、誰もがそう思った出来事だった。

 ところが、このコンバートには、当時の日本ハム監督・大沢啓二によるひそかな計算があったという。大沢は遊撃手・田中の未来を見限ったのではなく、故障回復を待つための猶予期間と気分転換を真の狙いとして、2年限定で守備の負担が少ないレフトにコンバートしたのだ。

 それを証拠に、田中は2年後の95年に予定通り遊撃手に復帰すると、ブランクを感じさせないどころか、久々の我が家に戻ってきたかのような躍動感を発揮した。その結果、339守備機会連続無失策のリーグ記録を樹立するなど、自己最高の守備成績で4度目のゴールデングラブ賞を受賞し、打っては初の打点王に。作戦は見事に当たったのである。

日ハムの田中幸雄

 これはサラリーマンにも参考になる作戦だ。例えば仕事において、なんらかのスランプに陥ったとき、あまり深刻に悩みすぎず、軽い感覚で違う分野の仕事に手を出してみるのもいいだろう。そこで気分転換を図ったり、さらなる見聞を積んだり、再び本来の分野に戻るための英気を養うわけだ。

 事情を知らない周囲は、それをキャリアの後退と捉えるかもしれないが、それは一時的なものであり、すぐに大きな前進のための充電だと認識されるだろう。まさにチョロQである。


仕事における失敗の数とはそれだけ本気で戦ってきた証拠

 プロ野球における投手の記録というと、やはり勝利数が最初に思い浮かぶだろう。現在までの勝利数歴代1位は言わずと知れた金田正一の400勝で、その後は米田哲也、小山正明と続き、10位は東尾修の251勝だ。また、勝ち星が多いということは必然的に負け数も多くなるわけで、それを証拠に敗戦数の1位もやはり金田の298敗である。その他のランキング上位者の顔触れを見ても、ほとんどが通算200勝以上を挙げた名球会投手ばかりだ。

 そんな中、通算敗戦数7位に入っている長谷川良平のことが気になった。彼は1950年の広島カープ創設と同時に広島入りした右のサイドスロー投手で、身長167センチと小柄ながら、広島創成期のエースとして活躍。63年に引退するまで通算197勝を挙げたものの、その一方で敗戦も多く、通算208敗と負け越しているのだ。実は200敗以上を記録した投手で、200勝を超えていないのは長谷川だけである。

広島の長谷川良平

 長谷川の敗戦数の多さは、1年目に15勝27敗を記録したときから際立っていた。その後も3年目に11勝24敗とダブルスコア以上の負け越しを喫するなど、現役14年間で実に8度の負け越し。しかし、それは当時の広島が球団創成期とあって非常に弱かったせいであり、彼の実力自体は球界屈指であった。

 実際、チーム内における長谷川の存在感は突出していた。50年はチーム41勝のうち15勝が長谷川、51年はチーム32勝のうち17勝が長谷川。創成期の広島は、ほとんど長谷川一人で他球団に立ち向かっていたのだ。

 したがって、長谷川の208敗とは決して恥じるべきものではなく、むしろ誇り高い記録だと言える。小さな体で弱小球団の屋台骨を一人で支え、強者に幾度となく戦いを挑んだ証拠である。ちなみに、当時をよく知る球界関係者も「長谷川がもし他球団にいたら300勝近くはしていただろう」と口を揃え、天下の400勝投手・金田も長谷川をライバル視していたという。

 そして、これはサラリーマンの世界にも置き換えられる。仕事における敗戦の数や失敗の数とは、その人がそれだけ本気で戦ってきた証拠であり、いわば名誉の傷痕だ。だから、決して失敗を恥じてはいけない、恐れてはいけない。たとえ通算成績で負け越したとしても、仕事において果敢に戦い続けた過程は必ず評価されるはずだ。 仕事とは数百の失敗を一つの成功で一気に取り返せるものである。そう考えると、失敗の数なんて余計にささいな問題だ。大切なのは戦うことである。

広島の監督も務めた長谷川良平。左は根本睦夫コーチ(1967年2月、日南)

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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