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先輩の披露宴の席で聞いたドラフト4位指名【下柳剛連載#5】

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周囲に説得されダイエーに入団することに

 左投げで球速もあるオレに巨人や中日、西武、ダイエーなど6球団が興味を示してくれた。「星野監督は怖そうだし、中日だけは嫌だなあ」やら「どうせなら地元・九州のダイエーがいいな」って考えたりもしたけど、1990年のドラフトでのプロ入りには抵抗があった。その年の都市対抗で1回戦負けして、新日鉄君津に恩返しができていなかったからだ。その旨は西武をはじめプロ側にも伝えていた。

 まあ、指名されることはないだろう。実際に、ドラフト会議が行われた11月24日の土曜日は野球部の先輩の結婚披露宴に出席していた。そして宴たけなわな中、司会の方が想定外のことをしゃべり出した。「皆さん、吉報です。本日ご出席の下柳剛さんが、ドラフト会議で福岡ダイエーホークスに4位で指名されました」。会場だけでなく、オレの心もざわついた。

 その後は、誰が主役なのか分からない状態になった。オレは「プロには行きません」って言いながらも、並んでくれた人に次から次へと書いたこともないサインとかしちゃって。まさに“披露宴ジャック”だよ。

90年12月に行われた入団発表には緊張の面持ちで臨んだ。前列右が下柳

 後日、会社には改めて「プロには行かない」という意思を伝えた。なのに周囲は認めてくれなかった。オレのために開いてくれた飲み会で「プロに行くって頑張っていたんじゃないか」って説得されてね。オレは一貫して「来年、都市対抗で勝ってからでいいです」って言い張ったけど、門川純監督にも「気持ちはありがたいけど、プロで頑張れ」って説得された。かなり飲んでいたこともあって、最後は泣きながら「ありがとうございます」って頭を下げてた。

 ずいぶんと回り道をしたけど、ようやくプロの世界までたどり着いた。契約金もいただいて「出世払いだ」といってため込んでいた70万円ほどの飲み屋のツケも一気に払うことができた。

 指名順位が4位といっても、社会人出身の即戦力候補だ。春季キャンプは順当に一軍入り。新日鉄君津時代に死ぬほど練習したこともあって、プロの練習が厳しいとは思わなかったし、ブルペンに入っても「意外にプロのピッチャーの球って遅いんだなあ」と感じた。

キャンプでランニングする下柳(前列左、1991年2月、高知)

 甘かった。ってか、プロをナメてた。自分の球が他の選手より速く感じたのは2月1日のキャンプインに合わせて体をつくってきたからで、先輩たちが見据えているのは開幕後のこと。オレの調整が早かっただけなんだ。

 プロは実力だけじゃないってことを痛感させられるシーンもあった。太ももを痛めたときのことだ。トレーナー室をのぞくと、そこにいたのは門田博光さん、山内孝徳さん、高柳秀樹さん、藤本博史さんといった実績のあるコワモテ系の先輩ばかり。そんなところでルーキーが「オレも診てください」なんて言えるわけないじゃん。オープン戦まではチャンスももらえて開幕一軍の目もあったけど、最後の1枠をめぐる争いに勝ったのは山内孝さん。次にチャンスが与えられることになる夏場まで、ひたすら二軍で耐えるしかなかった。

プロ初登板は大炎上…翌日即二軍送りに

 プロ1年目の1991年、開幕一軍を逃したオレに初のチャンスが巡ってきたのは8月6日のことだった。同じ左腕で先発をしていた杉本正さんとの入れ替わり。直前にチームが7連敗して5割ラインを大きく割り込んでいたから、首脳陣には「ここらで若いのを使ってチームの雰囲気を変えよう」という思いがあったのかもしれない。

 登板機会を与えられたのは7連敗のショックを断ち切り、4連勝で迎えた8月9日の近鉄戦(西京極)だった。先発は同じルーキーでドラフト1位の木村恵二さん。その木村さんが3回7失点でKOされた後を受けての2番手だった。

一軍デビューとなった1991年8月9日の近鉄戦は散々な結果に終わった

 緊張もしていただろうし、力んでもいたんだろう。吉田剛さんと大石大二郎さんに連続四球を与え、続く新井宏昌さんに犠打を決められていきなりの大ピンチ。3番のジェシー・リードこそ一ゴロに打ち取ったけど、ジム・トレーバーにはタイムリー三塁打を浴びた。さらに石井浩郎さん、鈴木貴久さんに連続四球でお役御免。ピンチでバトンを渡された3番手の斉藤学さんも金村義明さんにタイムリーを許した。

 オレに残った記録は失点、自責点とも4で、防御率は54・00。翌10日には二軍へ逆戻りして、二度と一軍から声がかかることはなかった。一軍と二軍の違いを痛感したオレは、それまで以上に野球に対して真剣に取り組むようになった。

 中途半端な形で一軍と二軍を行き来しても仕方がない。1年目の反省も踏まえて、2年目は首脳陣にも「ずっと二軍でいいから、たくさん投げさせてほしい」と訴え、ひたすらファームで力をつけることに専念した。92年の二軍での登板成績は23試合で6勝7敗、防御率3・95。イニング数は136回2/3に達した。

 ある程度の手応えをつかんだシーズンオフ、球団からの発表にオレは驚いた。成績不振で解任された田淵幸一監督の後任に、根本陸夫さんが就任するというのだ。しかも「代表取締役専務」という肩書付きで。正直言って「終わった」と思った。社会人の新日鉄君津時代に、根本のオヤジが「管理部長」として編成面を取り仕切っていた西武に「プロには行きません」って断りを入れていたからだ。

 結果として裏切っているんだから、干されたってクビにされたって文句は言えない。だけど、根本のオヤジは逆だった。「投げさせない」どころか「とにかく投げろ」と言ってきた。

マウンドで下柳に檄を飛ばす根本監督。中は松永浩美(1994年5月、福岡ドーム)

 福岡ドーム(現ヤフオクドーム)元年でもある93年は、オヤジに言われるままとにかく投げた。試合だけじゃなく、打撃練習時のバッティングピッチャーとしても毎日のように投げた。それも「調整」のような生半可なものじゃなくて、20分とかミッチリと。試合前にバッピをやって、試合では中継ぎ。そんなことしていたのはオレぐらいなんじゃないかなあ。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

平成球界裏面史

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