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パンクバンド「タモーンズ」でCDも出した本田多聞【豪傑列伝#21】

 アマ時代〝レスリングの神様〟と呼ばれた本田多聞は意外な素顔を持っている。パンクロックバンド「タモーンズ」を率いるボーカリストで、インディーズレーベルからCDを出した実績もある。アマチュアバンド界でも〝神〟とあがめられる本田と、ロックバンドとのつながりとは――。

 音楽に目覚めたのは小学生の時だ。ベンチャーズ、キャロル、クールスなどの和洋ロックに友人たちが熱中していた。そのカセットテープをラジカセで聴いたのが始まりだった。中学校に入るとビートルズの音楽に接するようになる。

【本田の話】テレビがない生活を送っていたのも、音楽を聴くようになった要因の一つだと思います。高校、大学時代は寮生活でしたし、合宿所のテレビは先輩が占領していましたから。大学1、2年生のころは8人部屋でテレビが一つしかなく、一番(の音源)がラジオ。好きな曲をテープに落として聴きました。

アマ時代は〝レスリングの神様〟と呼ばれた本田(1988年5月、代々木第二)

 本田は小学校からレスリングを始め、88年のソウル五輪、92年のバルセロナ五輪を含め3度の五輪出場、計8度の全日本選手権制覇を誇る。レスリング漬けの人生で音楽は心のオアシスだった。

 自衛隊を辞めてプロレスに転向することが決まったころ、ライブハウスにも頻繁に通えるようになった。そこで次第にアマチュアバンドのメンバーたちとも知り合うようになった。全日本プロレスに入門したのが93年春。10月にデビューを果たすと翌年、思わぬ転機が訪れた。

【本田の話】弟がやっていたアマチュアバンドで、私がボーカルをやったんですよ。「ラモーンズ」のコピーで「タモーンズ」という名前でした。その後、7人のメンバーが集まり、毎年暮れにライブハウスでライブをやることになりました。全日本の時は大っぴらにできませんでしたから、ジョーイ・ラモーンをもじってジョーイ・タモーンを名乗り、歌っていたんです(笑い)。

 年末を中心に多い時では年に4回もライブを開催したというタモーンズのライブには、小橋建太や志賀賢太郎、菊地毅ら当時バーニングのメンバーが応援に駆けつけたこともある。関係者合わせて50~60人の小規模なライブだったが、人前で歌うことには変わりはない。選手会の忘年会が終わった後に、スタジオに直行したこともある。もちろん忘年会では酒は一滴も飲まずに、朝の7時、8時まで練習を続けた。弟の協力で、インディーズレーベルからCDが発売されたこともある。

 さらにドイツの某有名バンドから「オムニバスに曲を入れないか」という打診があったこともある。気がつけばタモーンズは10年以上のキャリアを重ね、ハードコアパンク界にその名をとどろかす存在になっていた。だが3年前の暮れから、ライブ活動を中止。バンドをまとめる立場にあったメンバーの一人が心臓に持病を抱えており、その後亡くなったためだ。

【本田の話】区切りにもう一度みんなで集まって、演奏しようかという話はしています。音楽は自分を動かす着火剤みたいなものですかね。

ステージでもリングでも本田はロングヘアを振り乱す

 本田の入場曲は英国のハードコアパンクバンドG・B・Hの「NO SURVIVORS」。バルセロナ五輪後、G・B・Hの来日コンサートに出かけたことは一生忘れない。人生の思い出が詰まった激しいリフに乗って、今日もリングへと向かう。

※この連載は2009年4月~2010年3月まで全33回で紙面掲載されました。東スポnoteでは当時よりも写真を増やしてお届けします。

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