ヒトは結局、ラブソングを何曲、愛することができるのか
数年前からなんとな~く感じていたんですが、(邦楽も洋楽もジャンル問わず)新しい曲がなかなか浸透しないカラダになってしまいました。新曲を聞く意欲がなくなったわけではなくて、むしろ流行している曲を知っておきたいなと意識的にTikTokを見たりしているのに、なんだか昔のように〝入ってこない〟のです…。
加齢なんだろうか?
これが年を重ねるということなのだろうか。気になった私は音楽好きが集う、あるバーで「最近どんな新曲を聞いた?」と人生の先輩方に話を振ってみました。すると…
多岐多様な意見が集まったのち、私たちは「レコードが…」「カセットテープが…」「MDが…」「iPodが…」という懐かしの音楽記録メディアの話題に移って盛り上がりました。そこで私はふと思ったのです。もしかして自分自身が記録メディアだとしたら既に空き容量が不足してしまっているから新曲が〝入ってこない〟のではないか――。要するにキャパシティーの不足です(苦笑)。
ラブソングの効果効能
謎を解き明かすヒントがあるかもしれないと思い、しばらく積読にしていた『愛とラブソングの哲学』(光文社新書)という本を開きました。著者はほぼ同世代の源河亨さん。心の哲学、美学の専門家です。
第Ⅰ部では「愛とは何か」という純度100%の哲学が論じられますが、ていねいに解説してくれるので、つまずくことはありません。詳細はぜひ本書をご覧いただくとして、源河さんは「愛は生物学的な仕組みと社会的な仕組みが合わさってできたもので、本質は存在しない」と導くところがなかなかスリリング!私は思わずミスチルの大ヒット曲「名もなき詩」の歌詞にある「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物」を口ずさんでいました。
さて、第Ⅱ部では「ラブソングとは何か」に迫ります。まず一般的に歌が学習教材になることを示した上で、特にラブソングの歌詞は愛の概念を広めるための教材として機能し、聞き手自身が言語化できなかった心の状態に言葉を与え、混乱を解消する役割を果たすのだと言います。そして第8章「失恋ソングは心の傷をどう癒やすのか」の中で興味深い説を見つけました。
失恋ソング縛りのカラオケ大会
過去の記憶の改変説!! めちゃくちゃ心当たりがありました。あれは20歳のころだったでしょうか、失恋した当日にたまたま昔の友人と渋谷で同窓会的に飲む約束があって、私は〝世界の終わり〟のような顔で居酒屋に行きました。「どうしたの、何かあった?」と怪訝そうに見つめる友人たち。私がいきさつを打ち明けると友人たちは「マジで?さっき別れたの?」と大笑いし、「よし、二次会は失恋ソング縛りでカラオケだ!」と生ける屍となった私をカラオケボックスへ引きずり込みました。
そして始まった失恋ソングだけのカラオケ大会。最初は「けっ、人の不幸を笑いやがって…」と拗ねていた私ですが、傷ついた心に切ない歌詞とメロディーが染みるわ染みるわ。結局、小田和正の「さよなら」を泣きながら歌い、最後はなぜか全員で肩を組み「サライ」(※一応、歌詞に失恋にまつわる部分があります)大合唱で朝を迎えたのでした。
もちろん、その日に聞いた失恋ソングだけで傷が癒えたわけではないでしょう。でもあの日、友人たちは完璧な〝止血〟をしてくれたのだと感謝しています。
恋をし続ければキャパ∞かも
つい思い出話が長くなってしまいました。私がキャパシティー不足に陥っているかもしれないという検討に戻りましょう。
私の考えでは、新曲がただ入らないのではなく、記憶の改変が必要なほど苦い思い出はこれまで聞いてきたラブソングによって既に修復が完了していること。そして、そもそも新しい楽曲の世界観と結び付くような経験が少なくなったことの2点によるものだと思います。
だって就職して働いて結婚して働いて働いて…まるでビートルズの「A Hard Day’s Night」みたいな毎日(=これはこれで幸せ)が定着してしまったんだもん。逆に言えば、恋をし続ければ無限にラブソングを愛せるのかもしれません。何曲という具体的な数字までは見つけることができず、なあなあな結論になりましたが、恋も音楽もすごい力を秘めていることだけは間違いありません。(東スポnote編集長・森中航)