いばらの道を選んだ空手家・月井隼南 五輪切符ならずもフィリピン代表で得た〝大切なもの〟
必要以上に感情移入しないこと。スポーツ紙の記者になって今年で3年目。常日頃から心掛けていることだが、この選手の人柄を知れてよかったなと心から思うことが時々ある。
タレントの最上もがを連想させる鮮やかな髪色とつぶらな瞳。空手の女子組手55キロ級で東京五輪出場を目指したフィリピン代表の月井隼南(つきい・じゅんな=29)は、私にとって最も印象的なアスリートの一人である。
月井と初めて出会ったのは昨年の8月。関係者から「面白い子がいるよ」と聞き、五輪企画の一環として、インタビューを申し込んだのがきっかけだった。
月井は空手師範の日本人の父とフィリピン人の母を持つハーフアスリート。3歳までフィリピンで過ごし、来日後は7歳で空手を始めると、小中高と各年代の大会で全国優勝を経験した。大学時代はケガに苦しみながらも、社会人2年目で日本一の座へ返り咲き、日本代表入りを果たした実力者だ。
過去の実績から見れば、今でも日本代表に名を連ねていてもおかしくない。それなのに「なぜフィリピン代表を選択したのか」。月井の経歴を知った際に感じた純粋な疑問。取材を重ねるうちに、この選択の裏には、私の想像を超える苦労が隠されていたことがわかった。
近年、世界的に「人種差別をなくそう」との動きが進んでいるが、日本国内で人種差別が減ったとは言い難い。月井も「『外国人』『ハーフ』だというだけで、心ないことを言われてしまうことがある。『ハーフ』だからって勝手なイメージを決めつけられるのは嫌だと思っても、言われたことがない人にはわからない。『私たちの声だけを聞いて』って言っているわけではなく、いろんなDNAや文化、価値観があるってお互いに理解し合えれば、いろんな子がいるんだなで終わるのに」と感じたことが何度もあったという。
認めたくない事実だが、私の周りにも「外国人だから」「ハーフだから」というだけで差別をする知人がいた。その苦しみを味わってきた当事者だからこそ、言葉にできないような複雑な感情が私にも伝わってきた。
大人になっても「ハーフだから」というだけで、さまざまな誹謗中傷を浴びてきた。2016年には、五輪の新競技として初めて空手が採用されることになった。月井にとっても大きなチャンスで「初めての五輪。しかも、日本で開催される五輪に日本代表で出られたらおいしい」と考えたこともある。しかし、月井は「フィリピン代表として東京五輪を目指す」ことを決断した。周囲からは「日本から逃げやがって」との声も聞かれたが、月井は覚悟を決めていた。
「将来の子供たちに何か変えられるものや、刺激になることができたら。フィリピンで空手の知名度が上がれば、経済的な面でも少しずつ支援が可能になるかもしれない」
覚悟を持って戦い続けてきた(アジア大会)
小学生のころ、フィリピンの貧困地域で同年代の子供たちがゴミを拾いながら生活する姿を目の当たりにし「自分と同じルーツを持っているフィリピンの子で、同じ血が流れているのに」と衝撃を受けた。今でも日本とフィリピンの生活水準は雲泥の差。空手の練習環境も十分とは言えないからこそ「フィリピンのために私ができることはないのか」との思いで、17年4月にフィリピンへ拠点を移し、第2の空手人生をスタートさせた。
当初は現地で仕事をしながら空手の練習に励む日々を過ごしていたが、18年アジア大会では銅メダルを獲得。月井の活躍ぶりに、フィリピン政府もサポート体制を整えてくれた。夢だった東京五輪の舞台がいよいよ現実味を帯びてきた。
アジア大会でメダルを獲得し、フィリピン代表チームと記念撮影
一見、無謀に映るかもしれない挑戦。月井はその様子をあえてSNSなどで発信してきた。昨年の夏には、なかなか日本人アスリートが触れてこなかった東京五輪の開催可否に言及。新型コロナウイルス禍の影響で五輪が史上初の1年延期となった中、本紙インタビューで「スポーツって応援されてみんなが盛り上がるのが当たり前だと思っていたけど、応援してくれる人が元気じゃないと、自分たちが元気はもらえない。自分たちアスリートはそれ以外の部分に気を配って、気づいて考えて行動しないといけない。アスリートである自分の環境はむしろ恵まれている。でも、自分以外に困っている方がいるんじゃないかな」と率直な思いを明かしていた。
月井のインタビューが掲載された昨年8月21日付の本紙紙面
当然、公の場で発言をすることは月井にとってもリスクがある。それでも「アスリートとして、ハーフとして、日本人として生きて、フィリピン人の生活をして、いろんなものを踏まえて生活している自分だから届く声があると思う。誰かが思っていて言えないことがあるなら、自分が盾になってというわけではないが、自らが発信することでそういう人もいるんだよって気づいてもらえればいいな」と、自分の心境、結果などを逐一伝えてきた。
そして、迎えた21年五輪イヤー。プレミアリーグ(PL)リスボン大会(4月30日~5月2日)では、金メダルを獲得するなど、好調を維持していたが、6月の世界最終予選では無念の敗戦。あと一歩のところで五輪切符を逃し「たくさんの応援やサポートに応えることができず、本当にすみません」と肩を落とした。
私は「きっと月井さんなら奇跡を起こしてくれる」と信じていた。PL優勝時には「五輪出場を決めた月井さんの原稿が書けるのでは」と胸を膨らませていたが、まさかの結末に終わった。私にとってもショックが大きく「このまま引退しちゃうのかな」と何とも言えない思いに包まれていた。
そこで、先日思い切って月井に電話を掛けてみた。電話口からはいつもの明るい声が。しばらく雑談をしたあと「今後はどうするんですか?」と単刀直入に質問。すると、月井は「フィリピンチームの底上げをしないと。まだ下が育っていない。自分が『五輪まで思い切りやり切った』からって引退しても、まだ何もできていないので」ときっぱり。「やっぱり月井さんらしいな」とうれしい気持ちになった。
かねて月井が描く「世界一になる」という夢も諦めていなかった。11月には世界選手権が行われる。もうあのような悔しさは味わいたくない。「フィリピンの知名度を上げて、フィリピンのアスリートは強いんだっていうのを見せたい。(フィリピンの)空手界にはまだ世界王者がいないので、最初のチャンピオンになりたい。そして、下を育ててもっと強い選手が出ることを願いながら、土台づくりができたら」と気合は十分だ。
自ら選んだいばらの道。もちろん、月井にとって人生を左右する大きな選択だった。五輪出場はならなかったが、道なき道を己の力で切り開いていく姿は誰よりもかっこよかった。
「ミッキーマウス」の生みの親として知られるウォルト・ディズニーの名言の1つに「現状維持では後退するばかりである」という言葉がある。もし、月井が日本代表として空手にだけ専念していたら、違った結果になっていたかもしれない。でも、思い切って環境を変え、フィリピン代表として努力を続けたからこそ、得たものは〝五輪切符〟以上に大きかったのだろう。
最後に聞いてみた。「フィリピン代表になってよかったですか?」。月井はこう即答した。
「フィリピン代表の道を選んだことで、今までいた世界を広げることができた。過酷だった分、人として成長できたので後悔していない」
何一つ迷いのない言葉を聞いて「私も恐れずに前へ進もう」と心に誓った。〝月井さん〟みたいなかっこいい人間になるために。(運動二部・中西崇太)
※写真はすべて本人提供。本文中キャプションがない試合中の写真はすべて今年のリスボン大会。