日本の海でもお宝発見のチャンスが!?
埋蔵金と聞くと山の中などを想像する人も多いだろうが、財宝=埋蔵金=山中とは限らない。代表的なのは水の中。特に、海にはたくさんのお宝が眠っている可能性がある。トレジャーハンターの八重野充弘氏に、今回も夢のある話をしてもらおう。
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8年前から千葉県館山市の海岸で行っている沈没船の小判探しは、コロナ禍もあって数年間は休止中だったが、今年は夏の訪れを待って再開するつもりだ。17年前に時価約30万円の元文小判を1枚拾った老人も、もっとあるはずだと言うし、2枚目、3枚目が見つかる可能性は高い。ぜひ期待していただきたい。
ところで、海外ではトレジャーハンティングの主流となっている沈没船の宝探しだが、日本でもこれまで、けっこう見つかっている。
まずは昭和32年の伊豆大島のゴールドラッシュから。勝崎浜の沖合いの水深15メートルのところで、漁師が小判8枚を拾ったのがきっかけで、最終的に小判90枚、一分金43枚が引き揚げられた。付近には江戸時代の船が3隻沈んでいる。
海ではないが、昭和36年には山形県白鷹町の最上川中流の川底で、箱眼鏡で魚とりをしていた小学生が1枚の小判を発見。これを聞きつけた町の人がどっと川に押し寄せ、半月ほどの間に小判が計23枚、同時代の二分金が9枚、二朱銀が約300枚見つかった。近くの船着き場で、飛脚が川に落ちて溺死した事故があり、その飛脚の荷物だったと思われる。
大きな話題となったのは、昭和39年に東京都江東区有明の埋立地で35枚の小判が発見されたときだ。遊んでいた中学生が、15枚の慶長小判を見つけたことが報道されると、大騒ぎになり、弁当持参で探し回る人も現れ、さらに20枚が発見された。昭和32年にもその近くで元文小判が見つかったことがあり、いずれも浚渫した海底の砂に含まれていたことから、江戸時代の船が沈んでいたことがわかった。
ほかにも、江戸時代の商船が嵐で沈み、積み荷の小判などが海岸に打ち上げられたことがある。古い記録によれば、明治18年から42年にかけて、愛媛県の伯方島、広島県の佐木島と因島の近くで、小判や金の延べ棒が見つかっている。このうちのどれかは、1818年に沈んだ「竜王丸」の積み荷と思われ、小判5千両、金の地金4万5千両分を積んでいたというから、まだ大半は海の底ということになる。
また大正3年には、香川県の塩飽諸島近くで、長さ30㌢ほどの金の延べ棒3本と小判8枚が見つかった。これは1662年に沈んだ「天徳丸」の積み荷、小判2万枚と1万両の延べ棒の一部と思われる。
大正14年には、徳島県阿南市の沖合いで、アワビとりの漁師が岩の裂け目に挟まっていた小判を30枚以上見つけた。ほかに金の延べ板などがあり、付近には数万両を積んでいたという長曽我部氏や土佐藩の船が沈んでいる。
昭和23年には、青森県つがる市の七里長浜に、14枚の小判が打ち上げられたことがある。これは1821年に沖合いで沈んだ南部藩の船の積み荷の一部らしい。
いっぽうで、莫大な財宝を積んでいたという伝説はあるものの、まだ実績の上がっていない船もある。たとえば、北海道江差港に沈む幕府軍艦「開陽丸」。戊辰戦争当時、旧幕臣の榎本武揚らが北海道に独立国をつくるため乗ってきた艦で、巨額の資金が積まれていたらしい。しかし、昭和49年から10年かけて行われた公式な調査で、3万点以上の遺品が揚がったものの、金銀は48点しかなかった。
「開陽丸」をしのぐ大物が、神奈川県の久里浜沖に沈む仙台藩御用船「早丸」だ。幕府御用金400万両をはじめ、6万ドル分のメキシコ銀などが積まれていたというが、数次にわたって行われてきた調査の成果はない。
以上の発見例や伝説から容易に推測できるように、日本の周りの海には見つかったものよりまだ沈んでいるもののほうが圧倒的に多いはず。探査やサルベージの技術はどんどん進んでいるので、お楽しみはこれからといっていいだろう。