「夫婦でロックなんてカッコ悪いち思っとったけど…」【ダイアモンド✡ユカイ×鮎川誠 対談・後編】
「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。ゲストは「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠が登場。日本のロック草創期から活躍する鮎川が語るロック・ヒストリーとは?(企画構成=アラフィフ記者F)
お義父さんに後押しされて上京「勝負は東京でせんね!」
ユカイ 1973年、博多に現れた内田裕也さんの前で演奏して、その後、どうなったんですか?
鮎川 しばらく音沙汰なかったけど、翌年やね。74年に裕也さんがプロデュースした「ワンステップフェスティバル」(福島・郡山)の出演者に俺たちのことを入れてくれた。
ユカイ 裕也さん、博多まで発掘に行ったってことですね。すごい行動力だ!
鮎川 そうやね。福岡まで俺たちを見に来て、大きなフェスに出してくれた裕也さんにはいまだに感謝しとるし、思い出すとジーンときおる。裕也さんは大恩人やと思っとる。
ユカイ サンハウスはその年にレコード会社と契約して、翌75年にデビューアルバムを発売してます。デビューはすんなり決まったんですか?
鮎川 いや、そのころね、いろんなバンドが地方から「行ってきま~す」っち東京に行ってたんやけど、俺はその“上京してデビュー”っち図式が大嫌いやった。俺たちは博多におるぜ!ここでやるぜ!ち思とったら、テイチクのプロデューサーが「レコードを出しませんか。博多にいたままでいいです」ち言うてくれたからうれしくなってね(笑い)。それで74年にデモテープをとりに東京に行って、ワンステップも出してもらって。レコードもけっこう売れたんやね。「ヒット賞」っち盾をもらって。
ユカイ そんな鮎川さんが東京に行く気になったのは?
鮎川 サンハウスは福岡におるまま3枚目までアルバム作ったけど、メンバーが1人辞め、2人辞めして、3枚目が出たところで解散ちなった。78年やね。
ユカイ シーナ&ロケッツを結成したのもその年ですね。
鮎川 僕は既にシーナと結婚しとって、76年に双子が生まれて。シーナの実家が北九州なんやけど、お義父さんが「まこちゃん、一緒に暮らさんね。赤ちゃんやら大変やろ」っち言うてくれたから居候して。サンハウスが解散した時、お義父さんが「あんた、未練があるごとあるの。なんで東京で勝負せんね。福岡で人気あったっちゃ、日本じゃ誰も知らんばい。勝負は東京でせんね」ち言うてくれてね。
ユカイ 背中を押されたんですね。
鮎川「東京で一回勝負して、ダメなら音楽への未練を断ち切って家業を手伝ってくれ」っちね。
ユカイ 素晴らしいオヤジ心! 父親になって初めてそのオヤジ心の深さがわかります。
鮎川 それで東京に行って1週間ぐらいしたらシーナが来て。当時はパンクロックの大風が吹きよるころで、友達とストーンズの「Come On」のパンクバージョンをやりよったら、「私がコーラスやろうか」っちなって。そのころ、仕事にありつくことをものすごい真剣に考えだしてね。それまで生活のこととか、売れたいとか考えたことなかったけど、双子のためにちゃんとせなあかんち、他のシンガーに自分の曲を提供して。
ユカイ シーナさんではなく?
鮎川 その時はシーナとやろうなんて思いもせんやったよ。シーナはひそかに思いよったかもしれんけど、俺は夫婦でロックはかっこ悪いと思いよった。アイク&ティナ・ターナーみたいに夫婦でやりよる人はいたけど、俺らがあの人たちみたいになれるわけがないし、世間にも受け入れられんち思っとった。
ユカイ 70年代のロック界はそういう空気だったかもしれませんね。でも、鮎川さんの気持ちをひっくり返すほどのことがあったんですね。
〝まさかの〟シーナとバンド結成後にYMOと運命の出会い
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