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中学時代の体形はなんと160cm、90kg!【下柳剛連載#1】

 器用なようで器用ではなく、不器用なようで不器用でもない。エリートではなく叩き上げで、中継ぎも抑えも先発もこなし、37歳で最多勝のタイトルも手にした。笑いあり、涙あり。44歳まで現役で投げ続けた下柳剛氏が、型破りな野球人生を赤裸々に明かす。

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「下の下」から始まった野球人生

 早いもので昨年3月20日の引退表明から1年がたった。昨年末には地元・長崎で同級生たちに引退セレモニーもしてもらって現役生活に一応の区切りはつけたけど、今でもトレーニングは続けている。体に染み込んだ習慣っていうのは、急には変えられないからね。

現在は評論家として活動する下柳。背後から声を掛けられた和田監督は思わずビックリ

 正月も元旦から走っていたし、筋トレだって欠かしていない。ベンチプレスは100キロ以上いけるし、インナーマッスルだってちゃんと鍛えている。犬の散歩をする時間も以前より長くなっていて、愛犬のバド(オレと15年間連れ添って、昨年7月に天に召されたラガーの息子)なんて、最近すっかりヤセてきちゃったぐらいだ。

 正直、引退を決断した昨年の今ごろより体調はいい。現役復帰? それも悪くないね。左肩痛もだいぶ癒えてきたから。入団テストを受けさせてくれる球団があれば真剣に考えるよ。まあそれはさておき、そろそろ本題に入ろうか。まずは野球人・下柳剛の原点から。

 一般的に「プロ野球選手=野球のエリート」ってイメージしている人が多いと思うけど、オレは最初からそういうのとは対照的な道を歩んできたんだ。もう下から下からって感じで、リトルリーグとかも無縁だった。

 スタートは3つ上の兄貴たちがやっていたソフトボール。それも、ちゃんとしたチームじゃなくて近所の仲良しが集まって「じゃあ、やろうか」っていうノリの。家も裕福じゃなかったからグラブも右利きの兄貴と2人で1つ。それでも器用に使いこなしていたし、夢中になって白球を追っていた。

 もともと野球は好きだった。人気アニメ「巨人の星」の再放送も食い入るように見てて、オフクロの証言によると「あんたは医者を目指しなさい」って言ったら「やだ、オレは巨人の星になる!」って言い返していたらしい。

 プロ野球のナイター中継も真剣に見てた。悲しいかな長崎は巨人戦しか放映されない上、いわゆる「一部地域」だったから試合の途中でも午後8時50分ぐらいに中継が終わっちゃうんだけど。同じ左腕の新浦壽夫にうらひさおさんの投球に見入ったり、王貞治さんの756号本塁打に興奮したりしてね。プロ野球への憧れを抱くのは自然だったし、このころから「どうすれば上手になれるか」を考えていた。

756号本塁打を放ち父・仕福さん(左)、母・登美さんと喜びを分かち合う王貞治(1977年9月、後楽園球場)

小中校の12年間で一度も宿題をやったことがない

 オレは小・中・高の計12年間の学校生活で一度も宿題というものをやったことがない。夏休みの宿題の定番とも言える読書感想文やら自由研究もオール無視。後に社会人になってから「漢字ぐらいは、ちゃんと書けるようにしとくんやった」と後悔するんだけど…。ただ、こと野球に関しては「どうすれば上手になるか」を常に考えていた。やっぱり遊びでも人には負けたくないから。

 近所の壁に的を書いてコントロールをつける訓練をしたり、2階の屋根に向かって投げて、どう転がり落ちてくるか分からない中で瞬時の判断で捕球するっていう感じでね。肩だけは強かったから“オーバーフェンス”してガラス窓をパリーンなんてこともしょっちゅうで、よく逃げ回っていたなあ。

 そんな調子で仲間たちとソフトボールや野球を楽しくやっていたオレは、長崎市立坂本小学校を卒業し、長崎市立江平中学校に進んでから軟式野球部に入った。

小学生のころから野球に対しては向上心を持っていた

 でも、野球のエリートでもなんでもないオレが試合に出られるようになったのは3年になってから。外野での球拾いやら声出しばかりの日々…っていうのはよくある話だけど、オレの場合はそれプラス上級生からのイジメもあった。小学校時代にイジメてた1つ上の上級生が野球部にいて、その意趣返しってわけ。2人きりになったときに「ええかげんにせえよ」ってやり返すんだけど、そうしたらそうしたで他の上級生たちとつるんで「下柳は生意気だ」って倍返ししてくるんだ。それこそ毎日のように「声が出てない」とか言いがかりをつけられて、日課のようにケツバットを3、4発食らってたな。

 レギュラーになれなかった理由はオレ自身にもあった。すげえ太っていたんだ。身長160センチで体重は90キロ。もう少しタッパがあったら、プロ野球じゃなくて相撲部屋からスカウトされていたかもしれないね。ついでに言うと、当時のズボンは今はいてもブカブカだ。

 そんな体形で走れない上にバッティングもからっきし。3年生になって「5番・一塁」で試合に出られるようになってからも20打席以上ノーヒットなんてこともあった。まあ、たまにホームランを打つことはあったんだけど。

学生生活で一度も宿題はやったことがないと語る下柳剛

 悲しい思い出をもう一つ。中3のときにエースで4番のエリートの活躍でウチの学校が長崎市の大会で優勝して、中総体を勝ったら全国大会っていう大事な試合で3番手で登板する機会をもらったんだ。めったにないチャンスだったし、いいところを見せたいっていう思いから全身全霊を込めて初球を投げたら、左腕の尺骨がポキッと折れてそのまま降板。筋力が生み出すスピードに骨がついていけなかったんだろうな。さすがのオレも泣きそうになったよ。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦けいほ高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。


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