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【祝還暦】記者としての基本と姿勢を叩き込んでくれたのが、初めて訪れた後楽園ホールだった

 生まれて初めて後楽園ホールの薄暗い階段を下りて4階の選手控え室へ向かった。この時点ですでに心臓が破裂しそうだった。右手には東スポが10部以上。4階に下りると選手控え室の扉が開いている。まるで地獄の門のように見えた。まだ試合前、控え室への出入りが自由だった時代だ。(文化部専門委員・平塚雅人)

旧UWF興行、佐山サトル復帰で超満員に埋まった後楽園ホール(84年7月)

入社1年目、ジャイアント馬場さんにあいさつした瞬間は胃液が逆流しそうになった

 1989年4月に入社した記者は、11月15日に校閲部からプロレス格闘技と一般スポーツを担当する第二運動部へ配属となった。当時は研修のようなものもなく、配属翌日から1人で取材を任され、つたない原稿を書いた。取材後は会社に上がり、デスクに何度も何度も書き直しを命じられた。

会場入り口の〝門番〟だった馬場元子さん(84年2月)

 11月18日、初めて後楽園ホールを取材で訪れた。17日に大阪で開幕したばかりの全日本プロレス暮れの祭典「世界最強タッグ決定リーグ戦」後楽園2連戦だった。さすがに年末の大一番とあって、2人の先輩も取材に訪れた。当時の全日本は故ジャイアント馬場さん、故ジャンボ鶴田さん、天龍源一郎、谷津嘉章らを頂点にひとくせもふたくせもあるベテラン勢がゴロゴロしていた。

控室で笑顔のジャイアント馬場(89年9月)

 まだリングが設営中の午後4時前、その間に素人同然の記者が各控え室を回った。「今度、プロレス担当になりました平塚です。よろしくお願いします」と東スポと名刺を渡しては、頭を下げ続ける。「オウ、よろしく」と気軽に応じてくれる選手もいれば、名刺すら受け取ってくれないベテランもいた。選手だけではなく、当時は不良がそのまま大人になったような怖い和田京平レフェリーやジョー樋口レフェリー、リングスタッフにもあいさつを続けなければならない。馬場さんと夫人の元子さんにあいさつした瞬間は胃液が逆流しそうになった。

 そんな中「オウ。頑張れよ」と声をかけてくれたのが天龍であり、鶴田さんであり、満面の笑みを返してくれたのがまだルーキーの小橋健太(現:建太)だった。最初に雑談に応じてくれたのは、東スポの新人なら誰もがお世話になった〝ツバ大王〟こと故永源遥さんだった。少し心が救われた。ひと通り全員にあいさつが終わるまで1時間以上を要し、終わった時点で、もうその日の仕事が終わったような徒労感が全身を襲った。 

控室奥の通路が選手のファイティングポーズを撮るスペースだった。バックの落書きも特徴的(写真は小橋、88年7月)

優しい言葉をかけてくれた谷津嘉章にヘッドギアを…

 しかもいわゆる「雑感」のノルマが10本。選手と雑談をしなければ書けるものではない。前夜から「あの選手にはあれを聞こう。この選手にはこれを聞こう」とほとんど寝ずに考え続けたが、大概が空振りに終わり、原稿はノルマに達しなかった。そんな中、思いもよらず優しい言葉をかけてくれたのが、鶴田との〝五輪コンビ〟で出場していた谷津だった。

「そうか。君も日大か。頑張れよ」と谷津は握手してくれた。実はシリーズ前に「右顔面末梢神経マヒ」を患い、完治しないまま開幕戦を迎えていたことは本紙報道で知っていた。そこで前夜に思いついたあまりに図々しい提案を谷津にぶつけてみた。

「谷津さん、僕、大きなサイズのラグビーのヘッドギアを持っているんですけど、もし必要なら明日お持ちします」。当時、記者は社会人になっても草ラグビーを続けており、サイズを間違えて購入した未使用のヘッドギアを持っていた。おそらくは何の役にも立たないかもしれないが、この質問だけはぶつけてみようと心に決めていた。

 次の瞬間、谷津の目が光った。「それいいな。明日持ってきてくれよ」と答えが返ってきた。飛び上がるほどうれしかった。他の取材はどうにもならず、先輩記者にカミナリを落とされたが、初の後楽園で得た唯一の救いの言葉だった。家へ帰るとヘッドギアを磨いて翌日の後楽園へ持って行き、谷津に渡した。幸いにもサイズはピッタリだった。

「オウ、ありがとう。これいいな。今度お礼するよ」と肩を叩いてくれた。そして谷津はヘッドギアを着用してセミの馬場、故ラッシャー木村さん組戦へ出陣。3連勝で単独トップに躍り出た。

中央がヘッドギアを着用してファイトする谷津(89年11月19日)

 当時の本紙には「顔面マヒの谷津がヘッドギアをつけて大暴れ」との小さな見出しが立った。記者の記事は雑感しか掲載されなかったが、飛び上がるほどうれしかった。

 しかし先輩記者には前日より大きなカミナリを落とされた。

「そういう時は試合前に手渡すとき、写真を取ってそれをメインに記事を書くんだよ。『谷津、悲壮なヘッドギア出陣』とかそれで見出しが取れるじゃないか。単に渡しただけなら、それはファンと同じだ。原稿を書くことを前提に動けよ! このバカ!」

平塚記者が書いた当時の紙面(89年11月21日付発行紙面)

 頭から冷水を浴びせられた気持ちになった。いろいろな意味で記者生活で一番長い2日間だったような記憶がある。しかしその後はこの件をキッカケに顔が覚えられたのか、少しずつ他の選手も口を利いてくれるようになった。谷津はヘッドギアを着用したままシリーズを完走するも、天龍、スタン・ハンセン組に優勝を奪われて無念の2位に終わった。

控室はときに乱闘の場にもなった。川田が投げつけたイスが宙を舞う(91年1月)

 谷津は年が明けた1月2日の後楽園大会で、1月15日のラグビー日本選手権で(神戸製鋼対早稲田大学)「1万円かけよう」とわざと不利な早大にかけてくれた。おこづかいをくれてヘッドギアのお礼をしてくれるつもりだったのだろう。結果は58対4で神戸製鋼の圧勝。日本選手権後に地方会場で合うと「やられたよ」と笑顔で1万円を手渡してくれた。

 谷津は90年に全日本を離れSWSへ移籍したため、会う機会は減ったが、初めての後楽園大会取材の日は今でも鮮明に胸に刻まれている。同時に「こちらから何かを仕掛けなければ絶対に記事は得られない」という大きな教訓も得た。そして谷津は現在も65歳ながら「義足レスラー」として奮闘を続けている。こちらが先にへたってどうすると時々、勇気を与えられている。

平田一喜を投げる谷津嘉章(21年6月、さいたまSA)

数千回は取材に訪れた後楽園ホールに深く感謝

取材規制が始まり外のスペースで会見する長州力(92年3月)

 あれから30年以上が経過した。数千回は後楽園を取材に訪れているはずだが、今でも記者の原点は、後楽園の薄暗い階段を下りて控え室へ向かった時の言いようのない緊張感だと考える。記者としての基本と姿勢を叩き込んでくれたのが、初めて訪れた後楽園ホールだった。プロレス担当記者なら誰でもそうではないだろうか。対面取材が難しくなった現在だからこそ、あの時代に感謝したい。

 後楽園ホール創設60周年に際し、深い感謝の意を込めて、心からお祝い申し上げます。

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藤波辰爾と木村健吾のワングルワンマッチ興行には黄色いビルをぐるりと囲むほどファンが集まった(87年1月)
チケット完売の張り紙(91年7月、全日本の興行)
マグニフィセント・ミミを取材する入社2年目の平塚記者(90年5月、青森・三沢)


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