獄門鬼と呼ばれる男が怖がるほどの存在【プロレス語録#16】
力道山の愛弟子たちが言う場合は「オヤジさん=力道山」となる。
しかし、力道山の死後、東京五輪レスリング代表選手から日本プロレスに入門した“新世代”であるマサ斎藤(斎藤昌典)やサンダー杉山(杉山恒治)らの言う「オヤジさん」とは、日本レスリング協会・八田一朗会長(故人=当時参議院議員)のことだ。
今も日本レスリング協会が、寒中水泳やら異種格闘技特訓など他分野との交流、悪条件をモノともせぬ海外遠征を推奨、強行するなど、ほかのスポーツ協会とは比較にならない積極性を持つのは、この「八田イズム」が継承されているからだ。
現在では大学や社会人で実績を積んだアマレス選手がプロ入りするのは珍しくもないが、当時は五輪に出場するほど高い実績を持つアマ選手のプロレス入りは異例中の異例だった時代だ。閉鎖的な柔道界と比較して、アマレスからプロレス転向を果たした選手が多かったのは、八田会長による「アマもプロもない」「プロが栄えればアマも栄える」の方針が大きく作用していたからだ。
そんな八田会長はこの時期、公務の合間を縫ってはリキパレス(東京・渋谷)へと出向き、五輪代表選手から初めてプロレスに転向した斎藤や杉山(デビューはこの年の3月)のファイトぶりをチェックすることが多かった。
斎藤のセリフはリングサイドに陣取る八田会長の鋭い視線におびえたゆえのモノ。ちなみに八田会長は「よくやってるよ。特に斎藤は鼻血を出しながら、相手に向かっていくなど、いい根性をしているじゃないか。立派なプロレスラーだよ」とデビュー間もない斎藤のファイトに合格点を与えていた。
これは1963(昭和38)年12月7日、静岡・浜松市体育館大会のメーンイベントとして行われた6人タッグマッチ(力道山、グレート東郷、吉村道明組VSザ・デストロイヤー、バディ・オースチン、イリオ・デ・パウロ組)の終了後、力道山が放ったコメントだ。
試合は60分3本勝負。1本目は力道山の空手チョップが沖識名レフェリーに誤爆して日本人組の反則負け。2本目は力道山が怒りのキックをパウロに叩き込み3カウント奪取。わずか0分46秒でタイに。そして迎えた3本目、力道山と魔王は沖レフェリーをも巻き込んだ乱戦のまま一歩も引かず、ついに時間切れ引き分けとなった。
60分を戦い抜いた力道山は夜行列車で帰京。8日の午後10時すぎ、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で暴力団員に左下腹部を刺され、1週間後の12月15日に腸閉塞を併発し死去。これが本紙を飾った、力道山最期のコメントとなってしまった。
魔王は力道山が刺される数十分前の午後9時50分、力道山との再戦を誓いつつ、羽田発アンカレジ経由のノースウエスト機で帰国。力道山が死去したのは、1週間後のちょうど同時刻(午後9時50分)だった。また、両雄に深くかかわっていた沖レフェリーが、この日から20年後の1983(昭和58)年12月15日に、この世を去っているのも因縁深い。
まさかの刺傷事件とはいえ、当時は誰も力道山が死に至るとは予想していなかった。
その証拠に、力道山入院中、本紙で連載されていた「63年・プロレス界10大ニュース」は、1位が豊登の失踪騒ぎ、続く2位が力道山と田中敬子さんの婚約→結婚となっている。
※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。