最古参「ウマ娘」!45年前のマルゼンスキー伝説を「東スポ」で振り返る
「ウマ娘」では後輩に慕われる〝先輩〟〝お姉さん〟キャラとして描かれているマルゼンスキー。「バッチグー」「ダイジョーぶい!」なんて昭和の死語を使うように古参っぽさ満点なのですが、実際、リアルに活躍した時代で言えば全登場キャラの中では圧倒的に最古参です。走っていたのは1976~77年。次に古いミスターシービーやシンボリルドルフでさえデビューは82年とか83年ですから、まさにぶっちぎりで、さすがに私も生では見ていません。というわけで、伝説の名馬の足跡をたどるのは難しく…となっては、全国のマルゼンスキー大好き!の皆さんに申し訳ないですし、同じくファンである私も悔しいので、今回は、資料室に眠る古い「東スポ」を引っ張り出し、既に薄くなりつつある文字を虫メガネで読みながら史実を追ってみました。8戦8勝、マルゼンスキーの最強馬伝説はどのように報じられたのか、当時はどんな雰囲気だったのか。ともに時空を超えましょう。(文化部資料室・山崎正義)
昭和51年
ロッキード事件が政界を揺るがし、「およげ!たいやきくん」が大ヒットした1976年にマルゼンスキーはデビューしました。プロレス大好き新聞に勤めるプロレス好きな私からすると「アントニオ猪木対モハメド・アリ」という伝説の異種格闘技戦が行われた年だという認識です(笑)。
関東に所属していたマルゼンスキーのデビューは10月9日の中山競馬場。今で言う2歳の秋です。新聞をめくっていくと…ありました。
当時はまだ全レースの馬柱は載せていないので、午前中の第5レースは超簡易バージョン。騎手の下に調教タイムが載っていますが、これでどうやって予想するのでしょう(苦笑)。ただ、上の印を見ればマルゼンスキーが調教で良い動きをしていたのは間違いなさそうですよね? で、実際のレースはどうだったかというと、差のつきにくい芝の1200メートル戦なのに、2着に2秒もの大差をつけて逃げ切ります。なので、続く10月30日の「いちょう特別」に出てきたときはこんな印。
無事に馬柱がありました(笑)。初戦の圧勝を受けて、◎がズラリと並んでいますが、注目していただきたいのは馬名の上にある、「持」という漢字を〇で囲んだマークです…が! すみません、新聞が劣化して薄くなっちゃってますね。もうちょっと濃いやつを用意するとこんな感じ。それでも見えづらいですが…。
何のマークかというと、「持込馬(もちこみば)」であることを示しているんです。簡単に言いますと、おなかに赤ちゃんを宿したまま輸入された牝馬が産んだ馬。そう、マルゼンスキーのお母さんは外国の馬でした。オーナーの橋本善吉さんが、73年に米国のセリで目を付けたシルというその牝馬は、血統が優秀な上に、イギリス三冠馬・ニジンスキーの子供を受胎(妊娠)しており、超高額。しかし、ほれ込んだ橋本さんはおよそ9000万円で競り落とします。そして、そのシルが海を渡り、日本で産んだ牡馬(オス)がマルゼンスキー。子供の頃から、前脚の先が外を向いた、故障しやすいと言われる「外向(がいこう)」だったため、牧場関係者もオーナーも調教師さんもかなり心配したそうで、だからこそ初戦の圧勝にはホッとしたでしょう。しかも、この2戦目も六~七分の仕上がりで9馬身差の楽勝です。
「やっぱりすごい馬なんだ!」
「日本の血統とは違う」
「レベルが違うかも」
当然、モノが違うことを主戦の中野渡清一ジョッキーも感じていたはず。だからこそ、生まれつき不安がつきまとう脚元のことを考え、3戦目の「府中3歳ステークス」では、無理をさせないよう、ゆっくりめに走らせます。ただ、ありあまるスピードを制限されたマルゼンスキーが嫌がって体力を消耗してしまったのに加え、速度を緩めたために他の馬に並ばれ、最後は叩き合いに…ハナ差で勝ったもののヒヤリとさせられたので、続く若駒ナンバーワン決定戦「朝日杯3歳ステークス」では、そのときの2着馬・ヒシスピードと一騎打ちのような印になりました。
構図としては2強。しかし、中野渡ジョッキーの考えは違いました。いや、考えを改めていました。
「もともとのスピードが違うんだから」
「それを見せつけよう」
あまりいいスタートではなかったのですが、一気にハナを奪って逃げます。冬枯れの芝の上、マルゼンスキーはおそらく普通に走っていただけなのでしょうが、騎手に抑えられることなく、天性のスピードを発揮すれば誰もついていくことはできません。2番手のヒシスピードに常に4~5馬身差をつけて軽快に飛ばし、直線でムチを入れるとその差はぐんぐん広がっていきました。10馬身、11馬身…最後は13馬身とも14馬身とも言われる2・2秒差をつけた大差勝ち。いわゆるGⅠ級のレースでこんなに差がつくことはありませんから、ファンもあっけに取られたのでしょう。動画を確認すると、マルゼンスキーがゴール板を通過したときには「ひょえー」的な観客の声が入っています。走破タイム1分34秒4という2歳レコードはこの後、1990年まで破られない記録でした。
申し訳ありません、写真が残っていないので翌日に載った記事です。見づらいかもしれませんが、いずれにしても伝説級のぶっちぎり。記事では中野渡騎手がこう話しています。
「前回ハナの差まで詰め寄られたのは私のミスで、ちょっと油断してたからです。まともに走ればこんなものですよ」
下馬評では一騎打ちと見られていたヒシスピードの小島太騎手は完全にお手上げというしぐさだったとか。
「まったく、あの馬はケタが違うね。あんなに速いペースで行って、あれだけ伸びるんだから、まるで化け物だ」
さらにこう付け加えました。
「外車も最近は珍しくないが、あんなに強い馬が日本の競馬で走られたんじゃ、かなわないよ」
外車(がいしゃ)――競馬関係者やメディアは、日本の自動車より排気量やパワーで上回る外国の自動車にならい、当時増えつつあった「外国産馬」をそう呼びました。車同様、搭載エンジンが違う…と。マルゼンスキーは「持込馬」で、厳密に言えば、外国で産まれた「外国産馬」とは違うものの、メディアやファンの見方や認識、呼び方はやはり「外車」でした。そして、持込馬は外国産馬同様、様々な制限がありました。国内生産者を保護するため、クラシックと天皇賞に出られず、GⅠ以外でも出走できるレースが限られていたのです。というわけで、2歳頂上決戦でレコードを叩きだした馬は、皐月賞やダービーといったクラシック戦線を歩まず、裏街道を進むことになります。
昭和52年
1月22日、中京競馬場で行われた1600メートル戦を楽勝したマルゼンスキーですが、脚の骨に軽いヒビが入ってしまい、休養に入ります。復帰は5月7日、東京競馬場の1600メートル戦でした。
当然の大人気。本紙の記事によると、レース前には、ダービーに出走を予定している馬の陣営からこう哀願されたとか。
「タイムオーバーにだけはさせないでほしい」
当時は1着の馬から4秒以上離されてゴールすると、向こう1か月はレースに出られませんでした。「5月29日のダービーに出たいから頼むよ…」というわけです。そこでマルゼンスキーの中野渡騎手は、道中、後ろを振り返りながら、差をつけすぎないように走ります。なんとか2着とは7馬身差、ビリとは2・7秒差で〝とどめて〟あげました。
こうなると、分かっちゃいるけど、どうしてダービーに出られないんだよ!となりますよね。有名すぎるエピソードですが、中野渡ジョッキーは、ダービーの週に「賞金もいらない。大外でいいからダービーに出させてほしい」と語ったといわれています。30頭近い馬が出走した当時のダービーで「大外」というのは勝負になんてならないほぼ無理ゲー。それでもいいから出させてくれ!というコメントはもはや伝説となっており、様々な媒体でも触れられていますが、今回、当時の本紙をくまなく探したところ、似たようなコメントを見つけることができました。
「ウソでもいいから出走させてくれないかな。同じ年だというのに、なぜ俺の馬だけが特別扱いされなきゃならないんだ」
「外車だなんて騒がれているけど、この馬は日本で産まれ、日本で育った純粋な日本男児。クラシックに出られないのはおかしいくらいだ」
「悔しさのあまり眠れぬ夜もあった」
想いがにじみ出ていますよね。とはいえ、やはり、ルールはルール。ダービー出走の馬柱にマルゼンスキーの名前はありませんでした。
仕方なく向かったのは6月26日の「日本短波賞」(中山・芝1800メートル)。ダービーに間に合わなかった馬や、ダービーでは勝負にならなかった馬が集まる〝残念ダービー〟と称される伝統の一戦です。
◎ばかりなのは当然ですし、もちろん勝ったのですが、映像を確認すると、これがまた本当にすごいです。好スタートから軽快に逃げていき、向こう正面でひと息入れると、3コーナー手前で2番手との差が3馬身ぐらいにまで縮まります。その後、さらに接近され、内から2番手の馬に並びかけられたからさあ大変。観衆のどよめきとザワつきがしっかり映像にも収録されています。私が現場にいたとしても「すわ、故障か?」と思うぐらいの失速です。しかし、騎手が手綱をしごくと、「ああ、そういえばレースでしたね」とばかりにスピードを上げ、後続をグングン離していくではありませんか。直線では、ファンの方の「あ~あ~あ~」というあきれ声。カメラが観客席を映すと、「もはや笑うしかない」といったファンの表情が映っています。7馬身差をつけた2着馬は、ダービートライアル・NHK杯の勝ち馬で、この年の秋、菊花賞馬になるプレストウコウなのですから、本当に笑うしかありません。
翌日の本紙の見出しに「遊び半分」とあるように、引き揚げてきたマルゼンスキーの息遣いは少しも乱れていなかったと記事は伝えており、騎手も次のようにコメントしています。
「一瞬他馬に並ばれたときは内心困ったと思ったが、馬場が悪かったせいか、終始馬が遊び半分だった。いままで楽な競馬ばかりさせて、わがまま一杯に成長していたので、将来のためにもいい勉強になったのではないだろうか」
これで7連勝。同世代に敵はおらず、今後、どのような路線を進むのかに誰もが注目する中、実はとんでもないプランが進行していました。次走に予定する札幌のダート1200メートル「短距離ステークス」(7月24日)に、「天馬」と称され、当時〝最も速い馬〟として知られたトウショウボーイが出るといわれていたのです。くしくもマルゼンスキーが「日本短波賞」を勝った同じ日に「高松宮杯」を制していたため、上の紙面の左側には、マルゼンスキーとトウショウボーイの写真を入れたこんな記事が…。
見出しにあるようにまさに夢の対決。
天馬VS史上最速の外車――
当時の紙面をチェックすると、メディアが盛り上がり、あおったのがよく分かります。しかし、7月上旬になってトウショウボーイ陣営が回避をほのめかし、ほどなくして出走しないことが正式に決まりました。本紙は「短距離ステークス」当週の火曜日、こんな紙面を作っています。
見出しは「トウショウボーイが逃げた」となっていますが、記事をしっかり読むと、まず「回避もやむなし」だということが分かります。というか、普通に考えて、積極的に出走するレースではありません。何せ、前年の三冠で1、2、3着して、有馬記念まで制し、高松宮杯の前には宝塚記念も勝っているのです。そんなバリバリの王道ホースが、いくら調整の一環だからといって、札幌の1200メートル戦、しかもダート戦に出てくるのか。調教代わりに走って勝てるならともかく、化け物が出走を予定しているのですから、リスクしかないわけです。マルゼンスキーが出なかったら出走していたかもしれませんが、それもまた正直、微妙なぐらいの実現度だったのでしょう。
レースは、超ハイペースで逃げた馬の2番手につけたマルゼンスキーが直線で楽々と抜け出し、軽く追っただけで2着のヒシスピード(またまた登場)に、10馬身をつけました。
またまた記事の写真で恐縮ですが、ダートでもレコードタイムを叩きだすとんでもない強さに、当時のファンは強く願ったはずです。
「もっと強い馬と戦うところを見たい」
「本気のマルゼンスキーを見てみたい」
では、外車が出走できて、当時の日本のトップホースと戦うことができるレースは…。当然、陣営も分かっていました。
有馬記念!!
そう、年末のグランプリには持込馬が出走できるのです。師走にかけて数戦走った後、有馬記念で日本一を、最強を証明する――陣営のこの狙いは、ファンにとっての夢でもありました。有馬記念にはTTGと呼ばれた1歳年上の先輩たち、すなわち前出のトウショウボーイとそのライバルであるテンポイントやグリーングラスも出走するはずです。
最強世代VS史上最強の外車!!!
これはたまりません。実際、ファン投票でも、朝日杯以外の大レースを勝ったことがなく、中距離以上の経験がまったくないマルゼンスキーが4位にランクインしたのですから、その期待がうかがえます。だから陣営は必死に出走を模索しました。後に明かされたところによると、札幌の短距離ステークスの時点で脚元は既に限界に達していたといいます。結局、予定していた秋の数戦も使うことができませんでした。不治の病である屈腱炎の症状も出ていました。どう考えても走るのは無理です。だから私は、レースを前に、早々に回避したのだと思っていました。しかし、今回、当時の紙面を発掘して驚いたのですが、陣営は本当に最後の最後まで、有馬記念出走をあきらめていませんでした。これはレースの週の水曜日の紙面。
なんと、落馬負傷中の中野渡騎手に替わり、名手として知られた加賀武見ジョッキーを背に、馬場に姿を現したというのです。しかも、翌日、その加賀騎手を乗せて、追い切りまで行っているんです!
見出しにあるように、この追い切り後、やはり脚を痛がったマルゼンスキーを見て、ついに、やっと、陣営は回避を決めます。正直、私はまだ信じられません。
屈腱炎です。
不治の病です。
それでも走らせたかった。
それほどまでして知りたかったのです。
マルゼンスキーがどれくらい強いのかを。
これが分かっただけでも、今回、資料室に閉じこもった意味がありました。きっかけを与えてくれた読者の皆さんと「ウマ娘」に感謝しつつ、マルゼンスキーが無事に種牡馬となり、数々の名馬を輩出したことを付け加えておきます。最後は、引退式の記事と写真をどうぞ。写真でファンが掲げているメッセージ通り、私たちが彼の強さを語り継いでいきましょう。