【ダイアモンド✡ユカイ×織田哲郎 対談・後編】90年代Jポップを彩った名曲たちの裏にあった〝フォーク魂〟
「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド✡ユカイが、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。ゲストはシンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサーとして多数のヒット曲を世に送り出した織田哲郎。かつて組んだバンドが1年持たず崩壊したとき、失意の織田は音楽業界から身を引こうとまで考えたという。踏みとどまらせたのは、たまたま出会った占い師だった。(企画構成=アラフィフ記者F)
ROLL-B DINOSAURとして共演するユカイ(右)と織田哲郎(15年8月)
代々木の喫茶店で会った占い師に言われた「音楽をやりなさい」
ユカイ ユニットだった「WHY」をやめてバンドを組んだのは?
織田 バックバンドだとテレビでもライブでも出演ごとにギャラが発生するけど、バンドなら払わなくていいじゃない(笑い)。何しろ金がないから、WHYのバックバンドを探してた中で見つけたアマチュアに声をかけたんだよ。「いつか大きく稼ごうぜ!」って。
ユカイ メンバーなら稼ぎは自分たち次第。我慢してくれるからね。
――それで結成されたのが「織田哲郎&9th IMAGE」(1980年デビュー)ですね。織田さん、ギターの北島健二さんの他に、後にBOØWYに加入するベースの松井常松さん、バービーボーイズのドラマー小沼俊明さん、人気サックスプレーヤーの古村敏比古さんと、今となってはレジェンド級メンバーです
「織田哲郎&9th IMAGE」唯一のアルバムジャケット
ユカイ 織田さんがプロへの橋渡しをしたとも言えるね。当時織田さんはいくつ?
織田 WHYが21歳の時で、9th結成は22歳。本気で一発当てたろうやんけ!と思ってたんだけど、あのころの俺って本当に器が小さくてさ。取りまとめるなんてタイプじゃなかったから、バンドはあっという間に崩壊。なすがままで俺は何もできず、半年、1年で「ダメだこりゃ」って。
――ベースの松井さんは2枚目にしてラストシングル「色あせた街」(1981年3月)が出る前、80年にBOØWYに合流してます
織田 もともと氷室京介くんとバンドやってたからね。「また一緒にやれば」って俺から言ったんだよ。23歳にして2回デビューして2回とも失敗。俺なんてもうダメだと思ったよ。今思えば若造が何言ってんだって話だけど。
ユカイ 解散後はどうしてたの?
織田 CMで叫んだり、アレンジだけ、曲書くだけ、来る仕事はなんでもやった。給料なかったからさ。歌う仕事はギャラが良くて、ひと月に2つぐらい叫ぶとまあまあ金になったんだよ。そんな中ぶらりんの時期が2年ぐらい続いたんだけど、恐ろしいことに俺、その時期に結婚しちゃったんだよ。
ユカイ なぜに!
織田 わからん! 何考えてたんだろ(笑い)。
ユカイ そういうもんだよね、人生は。
織田 実は俺、そのころ、音楽業界に関わるのが嫌になって、もうこういう仕事は辞めようと思ってさ。一人でできる仕事がしたい、絵を描こうか、漫画やろうかと考えてた。なんで結婚してからそういうこと言ってんだろうね。俺、やっぱりイカれてたな(笑い)。
ユカイ 結局、音楽を選んだのはなぜ?
織田 たまたま入った代々木の喫茶店に占い師がいてさ。「何やろうか悩んでます」って相談したら「音楽をやりなさい」って断言されたんだよ。こっちは伸び放題の髪に無精ひげ。汚い格好してて、よもや音楽やってるなんて思わなかったと思う。だから「音楽やってるけど、もう辞めようと思ってる」って話したら、「手相を見ると明らかにいい。絶対に辞めてはいけない」って。そこまで言うならもう一回やってみようとね。
ユカイ 人生を導いた出会いだね。その人に会わず、織田さんが引退してたら、後のビーイングのヒットもなかったかもしれないじゃない。その人、いまどこにいるの?
織田 それ以来、一度も会ってないよ。その言葉でまたデモテープ作ってみてさ。長戸大幸さんに「こんな曲作ってます」って聴かせたら、長戸さんがかけあって、CBSソニーからのソロデビューが決まったんだ。
最初と最後では環境が変わった!80年代 ロックの躍進
ユカイ 織田さんがソロデビューしたのは?
織田 1983年だね。
ユカイ 俺はそのころ、大学でバンドやってたか。
織田 80年代ってさ、日本のロックにそれまでとは違う流れが出てきて、80年代の最初と最後では、ロックを取り巻く環境が大きく変わったんだよ。
ツイストの世良公則
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