ホーク・ウォリアーが「欲しい」と言ってきた衝撃写真…ベテランカメラマンが追懐
1980年代を代表するタッグ「ロード・ウォリアーズ」
入場テーマ曲「IRON MAN」が鳴り響き、さっそうと花道を走ってリングに向かう〝暴走戦士〟ロード・ウォリアーズ。80年代を代表するタッグチームだった。
「シカゴのスラム街で育ち、飢えをしのぐためネズミを食べていた」。アニマルとホークのロード・ウォリアーズが、そんなあおり文句で全日本プロレスに初来日したのは、今から37年前の1985年(昭和60年)3月7日。
その特異なキャラクターはマンガでも扱われ、来日前から人気が爆発。成田空港のVIPルームでの来日会見にはプロレスマスコミに混じり一般週刊誌の記者やカメラマン50人以上が詰めかけた。
翌8日、千葉・船橋での来日第1戦の対戦相手はキラー・カーン&アニマル浜口のジャパン・プロレス勢。ホークが浜口をフライングショルダータックルで吹っ飛ばせば、アニマルはリフトアップスラム。一方的な展開でフィニッシュはアニマルがベアハッグで抱えた浜口に、ホークが2回ロープに飛んで勢いをつけてからダイビングラリアート。219秒で圧勝し、衝撃的な日本デビューを飾ったのだった。
衝撃写真!暴漢に襲われたホークの顔に30センチの傷
アニマルが背中を負傷して3年近く戦線を離脱していた時期、ホークは新日本プロレスの佐々木健介(ペイントをしてパワー・ウォリアー)と組み、「ヘルレイザーズ」として活躍した。このチーム名はファンから公募して決まったものだ。
健介とのIWGPタッグ王座防衛戦を3日後に控えた94年9月24日、愛知県体育館でホークの控室を訪ねた私は、その顔を見て仰天した。
左頬からアゴにかけて約30センチの傷。23日の深夜、暴漢に襲われ刃物で切られたという。「刃物には俺もかなわん」とうそぶいていたが、その傷痕は生々しかった。
東スポ紙面で連載していたタイガー服部レフェリーの「我がプロレス交遊録」で、後に事のいきさつが明かされた。ホークは酒場でイラン人と喧嘩になりボコボコにしたものの、怒った相手に刃物で首を斬りつけられたという。
この写真を撮ったとき、ホークは写真が欲しいと言ってきた。後日、私は試合前にホークの宿泊していたホテルを訪ねた。ホークは私が近づくと、一瞬、怪訝な表情を見せたが、写真を見るとたいそう喜んでくれた。
試合会場で渡してもよかったのだが、〝わざわざ訪ねてプレゼントした方がもらう人のありがたみが増す〟という先輩カメラマンからの教えを実行したのだが、確かにそうしたことで、私の顔を覚えてくれた。
ホークから飲みに誘われたが…
ホークとは、翌95年4月にアントニオ猪木が北朝鮮で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催したときに再会。
29日の試合後、ホークから「仕事が終ったらホテルのバーに来いよ。」とお誘いが…。ホテルは北朝鮮側が決めたホテルに、選手とマスコミが同宿していた。
猪木VSリック・フレアーの写真を電送して、その日の仕事が終了。バーではレスラーが盛り上がっているだろうな…(実際、新日本&全女軍団は大盛り上がりだったようだ)。私はなんとなく、気後れしてしまいお誘いをすっぽかしてしまった。
翌日、平壌大城山遊園地でのイベントで顔を合わせバツが悪かった。ホークの「なんで来なかったんだ?」という視線を痛いほど感じた。
さて、北朝鮮以後はホークと顔を合わせる機会はなかった。そして、そんなホークは03年、フロリダ州の自宅で心臓発作により46歳という若さで亡くなった。今日、10月19日はホークの命日になる。
改めてホークさん、あのときは約束を破って本当にすいませんでした。(デジタルメディア室・木明勝義)