ボクは骨肉腫の少年に教わった。無駄に過ごす時間などあってはならないのだと【仁志敏久連載#9】
本当にまた会える、そう信じていたけれど…
ヤンキースに入団した松井秀喜(2003年1月)
チームの顔、圧倒的な存在感のある主砲は世界へと飛び立ちました。2003年、この年も波乱が待っていました。自分自身も思い通りにできない憂鬱な日々を過ごしていました。
そんな試練の年の開幕、ある少年との出会いがありました。その少年との出会いによって大切なことを教えられたのです。
開幕前、広報担当から「お前のファンだっていう子に会ってほしいんだ」と言われ、「いいよ」。そう軽く答えました。しかし、その子の実情を聞き、一瞬凍り付いてしまいました。
「実はその子は骨肉腫なんだよ」
試合前のジャイアンツふれあいプレータイム(2003年8月)
世の中には小児がんと闘う子供たちは少なくありません。撲滅に向けたプロジェクトは各機関が懸命に行っています。ですから、微力ながら力になるということは多くのスポーツ選手が経験しています。ルーキーの時も闘病中の中学生と電話で話したことがあります。開幕前日、練習後に東京ドーム内の会議室にその場は用意されました。誘導された部屋の扉を開けると何人かの人の姿が目に入ってきました。そして手前に車いすの少年。当時10歳の貴行君ははにかむような表情で恥ずかしそうに下を向いていました。
目がクリッとしたかわいらしい少年は、少しやせた感じがあり、薬のせいでしょう、頭にはバンダナを巻いていました。
「こんにちは」。声をかけると、小さな声で「こんにちは」。そう返してきました。
緊張気味の表情も写真を撮ったりサインを書いているうちに、次第に和らぎ、ニコニコとした笑顔を見せるようになりました。途中、お母さんから「野球をやっていたこと話したら」と言われニコニコと笑い、「何か話したら?」と続けられると小さな声で「明日、ホームランを打ってください」。「う~ん自信はないけど頑張るよ」。とりあえずそう答えました。
和やかな時間が終わり、帰り際、「また会おうな!」。本当にまた会える。そう信じていたからです。
翌日の開幕戦、偶然にも球場入りするところで貴行君を乗せた車に会い、「こんにちは」と声をかけると、お父さんが「今日、見に行くので頑張ってください」。そう答えてくれました。
2003年はこれまで以上に全力プレーを心がけた
結局、それが貴行君との最後でした。開幕戦を見た夜から容体が急変し、約3週間後に亡くなったそうです。
貴行君に会えて、彼の人生の一部になれたことを本当にうれしく思います。10歳の少年が重い病気を受け入れ、友達と遊べなくなったことはどれだけつらかったでしょう。体力が落ちていくことに不安もいっぱいだったと思います。でも貴行君は最後まで一生懸命生きました。
彼のそんな姿から時間の尊さを教えられたような気がします。目の前の時間を悔いなく過ごし、いつでも精一杯生きる。無駄に過ごす時間などあってはならないのだということを。
元木大介君との激突で狂い始めた歯車
2003年、期する思いがありました。前年の不振を挽回すべく、キャンプから必死に打ち込みました。
それまで体の軸をかっちりとは止めず、少し前側に流れるようにして打っていたのを、軸がぶれないように打つことを心掛けて改善に取り組みました。しかし、オープン戦でも結果が出ず、開幕は「8番・セカンド」での出場。「とにかく結果が出れば変わる」。そう信じて臨みました。
試合前にアップする仁志、ペタジーニ、後藤(2003年7月)
すると開幕カード3試合で1、4、3安打。その後もヒットはコンスタントに続き、やや下降したものの、開幕11試合で打率3割5分。思った以上の好スタートを切ったのです。
しかし、落とし穴が待っていました。開幕から12試合目、4月13日の東京ドームでの阪神戦。ファーストの清原和博さんが両足の張りを訴えて5回で途中交代。代わってサードに入っていた元木大介君がファーストに。この時、ライトはロベルト・ペタジーニでしたから、ライト付近のフライには注意していました。
事故が起きたのはその布陣になった直後。ジョージ・アリアスがファースト後方のファウルグラウンドへフライを打ち上げた。「この位置ではペタジーニは追いつかない」。そう思い、ボールだけを必死に追いました。
元木と激突。幸い軽傷だったが、打撃に影響が出た
ここから先は
¥ 100