見出し画像

僕と仲が良かったノリとローズのこと、「野村ノート」を使った伊勢さんの白熱教室【礒部公一連載#3】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

報道陣と話すときは英語だけど、日本語が上手なローズは普通に「なんでやねん!」

 同級生の中村紀洋とは仲がよかったですよ。よく飯にも行ってました。彼に打撃の相談をしたこともあります。僕が「打てないから酒をやめるわ…」と言うと「何、ちっちゃいこと言うてんねん。酔拳でええんねん。そんなもん」って(笑い)。近鉄の場合はそうなるんですよね。そんな小さいこと言わんでええやないかって。周りは彼に気を使ってたと思うけど、僕は気を使って話すようなことはなかったですね。

メジャーに挑戦した中村紀(05年3月、フロリダ・フォートマイヤーズ)

メジャーに挑戦した中村紀洋(05年3月・米フロリダ州)

 2004年を最後に近鉄がなくなり、彼はドジャースに移籍した。彼から「楽天に行くならメジャーに挑戦するわ」と聞いていたんで、行ってくるのも手じゃないか、と思いました。でも出場機会に恵まれずにオリックスに戻り、そのあたりからケガもあったりで球団と契約でもめたりね。僕も楽天に行ってチームが勝てなかったし、お互いに違う苦労をしてるな、とは思ってました。中日に入って、まさかそのあと楽天で同じチームになるとは思わなかった。彼は楽天のFA入団第1号なんです。

画像2

2001年に当時の日本タイ記録となる55本塁打をマークしたローズ

 そのノリと主軸を作っていたタフィ・ローズの打撃もすごかった。もともとの体の強さがあったんだけど、ミーティングでもスコアラーの話を熱心に聞いていました。外国人って左投手のインサイドをうまくさばけない。それを彼もわかっていた。僕のバットがタフィと同じような形のものだったんです。彼のバットの長さが34インチで僕のが33インチ。左投手のインサイドをさばくために僕のバットを借りて打っていましたね。配球も読むし、すごく頭を使う選手でした。

 僕が出場しはじめた1997年ごろは体は他の外国人ほど大きくなかったのに、毎年でかくなっていった。いろんなトレーニングでつくり上げた体です。春季キャンプは中旬から合流だったけど、体は向こうでつくってきているし、実戦ですぐに結果を出すからすごい。

 僕らと話すときは日本語でした。日本人のガールフレンドがいて日本語がうまく、普通に「何でやねん」って言ってましたよ(笑い)。報道陣と話すときは英語だったですけどね。飯もノリ、タフィとよく行ったし、彼は吉岡雄二さん(日本ハム二軍打撃コーチ)と仲がよかったですね。酒はあんまり飲まなくて、カラオケはうまくなかった(笑い)。

大阪プロレスのブラックバファローのマスクを被り中村紀(下)とふざけるローズ(02年9月、大阪ドーム)

大阪プロレスのブラックバッファローのマスクをかぶり、中村紀(下)とふざけるローズ

 近鉄時代のタフィは99年が2冠王、優勝した01年が当時の日本タイ記録の55本塁打を達成。2002年が打点王、03年が本塁打王。これだけ結果を残せたのは技術ももちろんだけど、近鉄の居心地がよかったんだと思うんです。大阪ドームまで自宅からハーレーで来てたし、終わってミナミの焼き鳥屋に行ったりね。大阪の環境がうまく適合し“いてまえ”のノリに合ったんでしょう。試合中に審判に文句は言っても僕らの前で怒った姿は見たことないですね。

本塁打を放ちローズ(左)にからかわれる礒部(01年9月、千葉マリン)

本塁打を放った礒部をからかうローズ

 とはいえ、当時の近鉄はみんなが仲よかったわけではないですね。派閥もあって…。

続きをみるには

残り 2,990字 / 5画像

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ