カルピス「生みの親」はすべてが規格外だった!
今でもコンビニの売り場にほぼほぼ並んでいる「カルピス」が誕生したのは1919(大正8)年。同じ年に起こった出来事が、パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、ワイマール憲法、禁酒法なので、これはもう「歴史の授業で習ったよな~」というくらい昔です。
当然、カルピスを作った人も知らなくて、私が本屋さんをブラブラしていたときにたまたま目に入ったのがノンフィクションライター・山川徹氏の『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館文庫)でした。
普通にスーツ姿の写真だったらおそらく手に取らなかったと思うのですが、この写真の三島海雲氏(以下親しみを込めて海雲さん)のイケメンっぷりとオシャレ具合が気になってしょうがなかったのです。
とりあえず〝裏スジ〟を読んでみましょうか。
「へぇ~!」が止まりません。カルピスのルーツがモンゴルだなんて知らなかったし、僧侶で日本語教師で行商人という働き方も異質すぎる。それにカルピスって初恋の味でしたっけ?女優の長澤まさみさんが「カラダにピース。」と言っているイメージしかありませんでした…。ちなみに、白地に青の水玉というデザインにも深い意味があったらしく、著者の山川徹氏はこう記しています。
【規格外その1】貧乏な寺の僧侶から一旗あげるために中国へ飛び出し、日本語教師になって、商売に目覚めて…ベンチャー精神がハンパない!
海雲さんが中国大陸に渡ったのは1902(明治35)年。ちょうど日清戦争と日露戦争の間で、中国には日本語教育を行う「東文学社」という学校が各地に立てられました。
一方で教育ではなく、玄洋社や黒竜会に代表される満蒙派の中には利権獲得や政治的秘密工作に従事する〝大陸浪人〟も多く、海雲さんの周囲にもそういった怪しげな人たちがいたそうです。
【規格外その2】マジか、大正時代には苦情が届いた「初恋の味」のキャッチコピー
今となっては信じられませんが、カルピスが発売された大正時代、「初恋」というワードは口に出すべきではないものとされていました。海雲さんの文学寮時代の後輩が、「カルピスを飲んでみた。あの甘くて酸っぱい微妙優雅な味は初恋の心に似ている。カルピスを初恋の味として売り出したらどうだろうか」と提案します。海雲さんは1年以上悩んだ末にこのコピーを使うことを決断します。1922年の新聞広告からこのコピーが使われるようになったものの、大阪では「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、ポスターや立て看板は自粛してほしい」と警察から申し入れがあったとか。隔世の感だらけですが、今でいうエモい広告出稿を決断したのはさすがです。
【規格外その3】1937年、あっさりカルピスの経営権を失う
1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発したいわゆる世界恐慌は日本にも影響を及ぼします。海外進出で景気回復を図る日本政府と同じようにカルピス社も中国大陸や朝鮮半島、樺太、台湾へと進出。1930年度に11万3375円だった海外売り上げが9年後には132万6293円と11倍以上に急成長しました。そんな中、海雲さんは資本金50万円を倍に増資しようと考えると、味の素の創業者の孫である三代目鈴木三郎助が出資に名乗りを上げ、海雲さんは大喜び。ところか50万円の出資でカルピス社の株の過半数を握られたわけで、しばらくするとカルピス社の社長に就任した鈴木が本社にやってきます。ここで初めて経営権を奪われたことを知ったというのです。
この時は友人らの働きかけによって何とかカルピスの経営権を取り戻すものの、海雲さんが亡くなったあと、カルピス社は1990年に味の素の傘下に入ります。そして2012年、清涼飲料水のシェア拡大を狙うアサヒグループHDがカルピス社を買収。2016年にアサヒ飲料に吸収合併され、現在はアサヒ飲料が新カルピス社を立ち上げています。会社は変わっても100年以上飲まれ続けるカルピス、すごいですね。ちなみに同じくアサヒ飲料の三ツ矢サイダーは1884年誕生。こちらもきっと我々が知らない長~い物語があるのでしょう。ロングセラー商品の歴史を紐解くのにハマりそうです。(東スポnote編集長・森中航)
【参考にした「カルピス」の歴史ホームページ】https://www.asahiinryo.co.jp/entertainment/history/calpis/history01.html