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カルピス「生みの親」はすべてが規格外だった!

今でもコンビニの売り場にほぼほぼ並んでいる「カルピス」が誕生したのは1919(大正8)年。同じ年に起こった出来事が、パリ講和会議、ヴェルサイユ条約、ワイマール憲法、禁酒法なので、これはもう「歴史の授業で習ったよな~」というくらい昔です。

当然、カルピスを作った人も知らなくて、私が本屋さんをブラブラしていたときにたまたま目に入ったのがノンフィクションライター・山川徹氏の『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館文庫)でした。

本を読んでいるうちにどうしてもカルピスが飲みたくなって自腹購入

普通にスーツ姿の写真だったらおそらく手に取らなかったと思うのですが、この写真の三島海雲氏(以下親しみを込めて海雲さん)のイケメンっぷりとオシャレ具合が気になってしょうがなかったのです。

毎度おなじみ、東スポ記者による読書ログです

とりあえず〝裏スジ〟を読んでみましょうか。

 カルピスは、「初恋の味」として知られる国民飲料だ。ルーツはモンゴル高原で遊牧民に食されていた乳製品。約百年前に三島海雲によって発見された。僧侶にして日本語教師、さらには清朝滅亡で混乱下の大陸を駆け抜けた行商人だ。日本初の乳酸菌飲料を生み出し、健康ブームを起こした。没後半世紀近く経ち、三島の名は忘れ去られた。会社も変わった。だが、カルピスは今も飲まれ続ける。「国利民福」を唱え、会社の利益よりも国民の健康と幸せを願った三島からすれば、本望かもしれない。モンゴルまで訪ね、規格外の経営者の生涯に迫った人物評伝。

「へぇ~!」が止まりません。カルピスのルーツがモンゴルだなんて知らなかったし、僧侶で日本語教師で行商人という働き方も異質すぎる。それにカルピスって初恋の味でしたっけ?女優の長澤まさみさんが「カラダにピース。」と言っているイメージしかありませんでした…。ちなみに、白地に青の水玉というデザインにも深い意味があったらしく、著者の山川徹氏はこう記しています。

カルピスウォーターのCM発表会に登場した当時19歳の長澤まさみ(06年3月、都内)

 カルピスウォーターのペットボトルにも、発売当時の包装紙に採用された水玉模様のデザインが用いられている。七夕にちなんで、青地に白の水玉という天の川をイメージした図案が、戦後に白地に青といういまも使われているデザインに変わったのである。
 三島が一九六三年にカルピス社の社員向けに語った講演原稿が残っている。
〈この包装は、宇宙の縮図である。天体には無数の星がある。丁度カルピスの水玉模様であって、遠方にある星は薄く、近くの星は白く強く光っている。そういう意味でも今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものである。右から左下へ斜めにしてあるのは、天の川を形取ったのである〉

山川徹『カルピスを作った男 三島海雲』(小学館文庫、2022年、17ページ)

【規格外その1】貧乏な寺の僧侶から一旗あげるために中国へ飛び出し、日本語教師になって、商売に目覚めて…ベンチャー精神がハンパない!

海雲さんが中国大陸に渡ったのは1902(明治35)年。ちょうど日清戦争と日露戦争の間で、中国には日本語教育を行う「東文学社」という学校が各地に立てられました。

清朝末期には世界史や地理、数学、物理など近代的な学問を教える人材が不足していた。そこで目を付けたのが、日本人である。三島たちのように大陸にやってくる日本人は近代教育を受けている。何よりも西欧人とは違って、清朝のエリートに劣らないレベルの漢文をマスターしていた。
 日本にとっても中国人教育にはメリットがあった。教育を通して知日派、親日派を増やすことができれば、大陸進出の役に立つからだ。
 日本と清朝の互いの利益が一致し、中国大陸で日本人の手による近代教育が始まった。日本人教習による中国人教育は、一九一〇(明治四三)年ごろまで続く。

前掲書、71ページ

一方で教育ではなく、玄洋社や黒竜会に代表される満蒙派の中には利権獲得や政治的秘密工作に従事する〝大陸浪人〟も多く、海雲さんの周囲にもそういった怪しげな人たちがいたそうです。

滋賀県立大学のブレンサインは次のように解説する。
「当時の大陸浪人には財閥や大物政治家、政治結社、軍部などスポンサーがいた。三島海雲も西本願寺からか、あるいは別の組織からかは分かりませんが、なんらかの役割を与えられていたと考えるのが自然でしょう」

前掲書、167ページ
海雲さんの話があまりにも壮大なので、部屋を飛び出して公園で大地と空を感じながら読書

【規格外その2】マジか、大正時代には苦情が届いた「初恋の味」のキャッチコピー

「初恋の味」が初めて使われた新聞広告(「カルピス」の歴史HPから)

今となっては信じられませんが、カルピスが発売された大正時代、「初恋」というワードは口に出すべきではないものとされていました。海雲さんの文学寮時代の後輩が、「カルピスを飲んでみた。あの甘くて酸っぱい微妙優雅な味は初恋の心に似ている。カルピスを初恋の味として売り出したらどうだろうか」と提案します。海雲さんは1年以上悩んだ末にこのコピーを使うことを決断します。1922年の新聞広告からこのコピーが使われるようになったものの、大阪では「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、ポスターや立て看板は自粛してほしい」と警察から申し入れがあったとか。隔世の感だらけですが、今でいうエモい広告出稿を決断したのはさすがです。

【規格外その3】1937年、あっさりカルピスの経営権を失う

1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発したいわゆる世界恐慌は日本にも影響を及ぼします。海外進出で景気回復を図る日本政府と同じようにカルピス社も中国大陸や朝鮮半島、樺太、台湾へと進出。1930年度に11万3375円だった海外売り上げが9年後には132万6293円と11倍以上に急成長しました。そんな中、海雲さんは資本金50万円を倍に増資しようと考えると、味の素の創業者の孫である三代目鈴木三郎助が出資に名乗りを上げ、海雲さんは大喜び。ところか50万円の出資でカルピス社の株の過半数を握られたわけで、しばらくするとカルピス社の社長に就任した鈴木が本社にやってきます。ここで初めて経営権を奪われたことを知ったというのです。

いくらなんでも不用意で脇が甘い。三島は『履歴書』で〈元来、株数がどうのという方面にはあまりこだわらない〉と言い訳のような弁解をしている。経営者としてどうなのかと思ってしまうが、株や経営などに無頓着な浮き世離れした生き方が魅力ともいえる。

前掲書、239ページ
1943年、陸軍に納入された「軍用ビタカルピス」(「カルピス」の歴史HPから)

この時は友人らの働きかけによって何とかカルピスの経営権を取り戻すものの、海雲さんが亡くなったあと、カルピス社は1990年に味の素の傘下に入ります。そして2012年、清涼飲料水のシェア拡大を狙うアサヒグループHDがカルピス社を買収。2016年にアサヒ飲料に吸収合併され、現在はアサヒ飲料が新カルピス社を立ち上げています。会社は変わっても100年以上飲まれ続けるカルピス、すごいですね。ちなみに同じくアサヒ飲料の三ツ矢サイダーは1884年誕生。こちらもきっと我々が知らない長~い物語があるのでしょう。ロングセラー商品の歴史を紐解くのにハマりそうです。(東スポnote編集長・森中航)

1991年に登場したカルピスウォーター、このデザインは懐かしい(「カルピス」の歴史HPから)

【参考にした「カルピス」の歴史ホームページ】https://www.asahiinryo.co.jp/entertainment/history/calpis/history01.html

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