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「“偉大なるマンネリズム”こそ『笑点』の魅力」17年前の正月に三遊亭楽太郎が語ったこと

 日本テレビの人気番組「笑点」の新メンバーが2月から登場することが明かされ、さまざまな候補が取りざたされている。新メンバーは昨年9月30日に亡くなった六代目・三遊亭円楽さんの後任。その円楽さん(当時はまだ三遊亭楽太郎)が17年前の正月に東スポで語っていた「笑点」の楽屋事情を復刻します!(※表記はすべて2006年時点のママです)

六代目円楽の人形に面を入れようとする桂歌丸(10年3月、帝国ホテル)

一席

 全国の本紙読者のみなさん、新年、明けましておめでとうございます。ボクが国民的お笑い番組「笑点」に出演させてもらえるようになってから今年の夏で30年目。手前ミソだけど、これは二重におめでたい。おめでたいついでに、ボクが楽屋から見た怪物番組の「笑点」の真実を、包み隠さず公開させてもらっちゃおう。

 まずは司会の三遊亭円楽師匠について。軽い脳こうそくで休養させてもらっているけど、正月の「大笑点」に顔を見せてくれたことでひと安心。3日には高座にも登場した。近いうちに完全復帰してくると思うよ。今では番組の中で「馬ヅラ」なんて平気で言っちゃっているけど、それはあくまでシャレ。落語家になれたのも「笑点」に出演できたのも、すべては偉大な円楽師匠のおかげだからね。いくら腹黒キャラのボクでも、円楽師匠のことは全面的に尊敬している。大学在学中、落語の世界に誘ってくれたことに始まって、人気番組のレギュラーの座まで譲ってくれたんだから、いくら感謝しても感謝し足りないね。

5代目三遊亭円楽は楽太郎の恩人

 若い読者のために少々説明させてもらうと、ボクが「笑点」のレギュラーになれたのは77年8月からだった。当時の「笑点」は三波伸介さん司会の大喜利が大人気で、今とほとんど変わらない高視聴率を記録していた黄金期。大喜利の主要メンバーは円楽師匠や(桂)歌丸師匠だ。その黄金期に、中心人物の円楽師匠は「落語に専念したい」と表明。降板することになったから、弟子のボクも正直言って驚いた。当時の円楽師匠の年齢は44歳。芸人として人気・実力ともピークの時期だよ。しかも、落語家なら誰でもノドから手が出るほど欲しい「笑点」のレギュラーポジションを自分から手放しちゃう、ってんだから思い切りがいい。そのうえ、後任としてボクを推挙してくれたんだ。ボクは27歳の若造で、まだ二ツ目だ。ちなみに落語の世界は、完全なタテ社会。真打ちの先輩諸氏が数多くいる中で二ツ目のボクを推薦してくれた円楽師匠には本当に頭が上がらない。

 レギュラーになれたとはいえ、最初は何をどうしていいやら分からず、戸惑いしまくりだった。そんな時、放送第1回からのメンバーで亡くなられた三遊亭小円遊さんが歌丸師匠とやり合って、客席を沸かせていたことをプロデューサーから指摘された。小円遊さんの代役的な役割も果たしてほしいという意思表示だったんだろうな、きっと。現在の大喜利ではボクと歌丸師匠のボケと突っ込みのようなやり取りが名物になっているけど、原型は小円遊VS歌丸なんだ。もちろん、ただの継承ではなくボクの色を出すようにした。
「笑点」でのボクの存在感がようやく安定してきたかな、というころ司会の三波さんが亡くなり、円楽師匠が司会として復帰してきた(83年)。この時には大喜利メンバーに、のちに円楽師匠門下になる林家九蔵(現・三遊亭好楽)さんも入っていた。弟子をひとり世に出すだけでも本当に大変なのが落語の世界。これまで円楽師匠のことは名馬だと思っていたけど、ボクと好楽さんのふたりを世に出した指導力を考えると“馬”じゃなくて名伯楽だったんだね。

二席

 最近になって「笑点」といえば、ボクと(桂)歌丸師匠との掛け合いが最高に面白い、と評価していただけるようになった。もっと熱心な視聴者の方からは「ホントに楽太郎さんと歌丸さんは仲が悪いんですか」と聞かれることも多くて、そこまでボクと歌丸師匠の仲が有名になったのかと思うと感慨深いものがあるね。でも、結論から言うと仲が悪いはずがない。もしも本当に仲が悪かったら、いくら番組の中のこととはいえ、ボクがイジることを歌丸師匠が許すはずがないよ。

三遊亭小圓遊と桂歌丸(74年6月、後楽園ホール)

 もともと落語の世界は古典的なタテ社会で、先輩が白いものを黒と言ったら、黒で通っちゃう。そういう意味では封建的なんだけど、それだけ格と経験を重んじると解釈してもいい。善悪はともかく、落語の世界ってのはそうなんだ。しかも歌丸師匠はこの世界でも好き、嫌いがはっきりしている人で有名。嫌いな落語家とはあんまり話もしないし、イジるなんてもってのほかだよ。ほかのテレビ番組でたとえ一方的にイジったとしても、きっとリアクションなんかありゃあしない。

 そんな歌丸師匠なのにボクに限って、なぜ許してくれているか?っていうと、歌丸師匠がボクのことを認めてくれているからだと思う。歌丸師匠はね、古典落語を一生懸命やる人間じゃないと認めないんだ。ボクは(三遊亭)円楽師匠の姿を見ていたから、30代で一念発起、古典落語を一から勉強し直した。「落語家なんだから、落語ができて当たり前」なんて思わないでください。タレント活動がやりたくて、落語家になる人間もいるんだから。

 歌丸師匠も本業にかける意気込みはすごいから、ボクのことを見ていてくれたんだろうな。だからボクの突っ込みにも軽快なリアクションを返してくるし、評価もしてくれる。いくら「笑点」メンバーでも、ボク以外の人間が歌丸師匠にちょっかいを出したら、いい顔していないもんね。もちろん、メンバーだってそのへんのことは承知している。あうんの呼吸ってヤツだよね。(林家)こん平さんの代役で出演している(林家)たい平なんか、イジりたくても歌丸師匠はイジれないもんだから、座布団運びの山田(隆夫)クンをイジるしかない、ってワケだ。

 こんなにも落語を大切にしている歌丸師匠は、ボクと2人だけの高座「二人会」もやってくれている。「二人会」でのボクはもちろん前方(まえかた)。ただし、前方だからといって手抜きなんか一切、なしだよ。まず舞台であいさつ。前口上として、「今日のお客さんは本当に運がいい。どれくらい運がいいかというと、歌丸の人生最後になるかもしれない高座を聞けるんですから。高座の最中に救急車が駆け付けて、歌丸が病院に運ばれても、どうかご容赦ください」とやる。歌丸師匠も心得たもので、ソデ口から姿を現してくれて、ボクに物を投げつける。

 こうすると出だしから客席は大ウケで、お客さんもすんなり落語の世界に入ってこれるでしょ。「笑点」でボクが歌丸師匠をイジるのも、客席が「ちょっと寒いな」と感じた時が基本。もっとも調子に乗る悪いクセが出て、円楽師匠から「楽太郎、やり過ぎだよ」って小言を言われることもしょっちゅうだけどね。

名コンビだった2人(08年6月、博多・天神)

三席

 ある意味、「笑点」の名物は(林家)木久蔵さんのボケっぷりだけど、この人の場合、演技じゃないから怖いよ。正直言ってボクも、楽屋では木久蔵さんとできるだけ目を合わせないようにしている。もしも視線が合っちゃったら…それこそタイヘンだ。木久蔵さん、ほとんどすべての商売に失敗しているのに、山っ気だけは人三倍も旺盛にあるから、ミョ~なアイデアを温めていて、他人に話したくって仕方ないらしい。他のメンバーはみんな悪癖を知っているから、楽屋では木久蔵さんの方にはハナっから顔を向けないワケだ。ボクもできるだけ、目を合わさないようにしていたのだが、先日、ちょっとした油断で視線が合っちゃって…。

林家木久蔵(87年1月、後楽園ホール)

 きっと、木久蔵さんはその瞬間を待っていたんだろうね。すかさず、自分のやっていることを説明し始めた。その時、木久蔵さんは楽屋の片隅で木の切れっ端を削っていたんだけど、削った木の切れっ端を「売るつもりだ」っていうから、驚いたね。聞けば、北海道で仕事をした時、近所に雑木が山と積んであったそうだ。木久蔵さんはそれを見た瞬間「これは商売になる!」と踏んで、雑木をタダで譲ってもらった。ただし、雑木のままで売れるはずがないことは、さすがの木久蔵さんでも分かっている。それで木を削って、「サインしてるんだ。こうすりゃあ、売れるよ」と鼻高々なワケさ。

 ボクは思わず、絶句しちゃったね。いまどき、誰がサイン入りの薪(まき)なんか買うかってぇーの! それでも本人は大マジなんだから、やっぱり変わってるよ。木久蔵さんの山っ気を物語るエピソードは、ほかにもある。真夏のある時、突然「ビアガーデンをやる」って言い出したことがあった。場所ももう決めてある、って強気の発言。なんでも浅草の吾妻橋の川岸でビアガーデンを開けば「絶対当たる」と言い張るんだ。今すぐにでもやっちゃいそうだったから、ボクはアドバイスしてあげた。「木久蔵さん、あそこではすでに日本一のビール売上高を誇るアサヒビールが、自社ビルでビアガーデンをやってるの。そんなとこで木久蔵さんのビールを誰が買うの?」。ボクの助言を無視してビアガーデンをやった木久蔵さんは冷夏のせいもあって大損してた。

東スポに来社した林家木久蔵(75年12月、築地)

 そうそう、木久蔵さんの息子の(林家)きくおクンもヘンなんだよ。ボクがプライベートでハワイに旅行していた時、偶然きくおクンに会ったことがある。ちょうど夕飯時だったから、きくおクンを食事に誘ったんだ。「ありがとうごさいます!」。二つ返事してレストランに到着した後、きくおクンはすぐに電話し出した。誰に電話をしたのかな、とは思ったけど、聞くのもおかしいからボクはそのままメニューを見ていたんだ。そうしたら、なんと木久蔵さんに奥さん、それに子どもたち全員がニコニコしながら、ボクらのテーブルにやって来るじゃないの。この時になって、きくおクンが一家全員を呼んだ、と気付いたんだけど、もう後の祭り。そのままの流れでボクが木久蔵さん一家全員の夕食をごちそうするハメになっちゃった。タテ社会の落語の世界で、先輩・木久蔵さんに後輩のボクがおごるなんて、どう考えても筋が通らないんだけど、木久蔵さんの中ではつじつまが合っているんだろうね。食事が終わると、「楽ちゃん、ごちそうさま!」ときたもんだ。 

四席

 ファンだけじゃなく、プロの芸人さんから「笑点は本当に怪物番組。人気の秘密はどこにあるんですか?」って言われることも多い。今年の8月で「笑点」出演30年目を迎えるボクなりに考えてみた。最大の秘密は「視聴習慣」にあるんじゃないか、って思っているんだ。66年の放送開始以来、日曜日の午後5時30分という枠をほぼ固定し続けて、視聴者の方々に「日曜の夕方は『笑点』とアニメ『サザエさん』を見て過ごす」という生活習慣さえも定着させた。これはほかの番組がマネしようと思ってもできない強みだよ。

左から林家木久蔵、三遊亭円楽、桂歌丸、山田隆夫、三遊亭楽太郎(87年1月、後楽園ホール)

 2つ目の理由としては「腹八分目」が挙げられるだろうね。番組冒頭の芸人さんによるネタみせが7分から9分程度。ボクらが出るメーンの大喜利は15分から17分くらいと決まっている。この短さだと「う~ん、もう満腹」ってワケにはいかない。もうちょっと食べたい、っていう気分のところで「また来週」となる。この「もうちょっと食べたい」感覚、言い換えれば腹八分目感覚がいいんだよ。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」で、満腹まで食べちゃダメってことだ。番組あてで視聴者からは「もうちょっと大喜利の場面を長くしてもらえませんか」という趣旨の要望がかなりの数届くけど、逆に長くしてごらんなさい。きっと胃がもたれちゃうんだから。

 3つ目の強みは(三遊亭)円楽師匠と(桂)歌丸師匠の大御所コンビの力が、番組を守っている、ってことだろうね。今では考えられないことだけど、80年代の終わりから90年代の初めにかけて「笑点」の低迷期があって、視聴率も横ばい。そのころ、番組プロデューサーが内容を大幅に変更するリニューアルプランを、何回も提示してきたんだ。プロデューサーとしてはテコ入れ策のつもりなんだろうけど、円楽師匠と歌丸師匠にかかると「何言ってんだ、アイツは。あんまりしつこく言ってくるなら、我々は辞めちゃうぞ」ってなる。普通はプロデューサーが芸人の生殺与奪の権利をにぎっているもんだけど、「笑点」は逆かもね。

 結果的にはこの時、路線変更しなくて良かったワケさ。だから再び好調な勢いを取り戻してからの「笑点」を担当した某プロデューサーは、人事異動で別の番組のプロデューサーになる時の送別会で「今まで、気持ちのいい“ぬるま湯”に浸からさせていただいて、本当にありがとうございました」ってアイサツ。拍手されていたっけ。何もしなくても完成されたスタイルを維持するだけで高視聴率を獲得できた、そんな実感から出た言葉だったな。

林家こん平(83年2月、巣鴨)

 ほかの番組ではあり得ない、こんな「笑点」だからこそ、レギュラーメンバーにこだわるんだ。多発性硬化症でリハビリ中の(林家)こん平さんの復帰を待っているのも、「笑点」以外では考えられない措置。先日、こん平さんは楽屋にアイサツしに来られていたけど、ボクはあまり話さなかった。ボクのイメージの中には、番組での、あの元気いっぱいのこん平さんしかいないからね。いつの間にか、こん平さんが向かって右端の定位置に座って、元気いっぱいに大声を出している。それこそが“偉大なるマンネリズム”「笑点」のあるべき姿だよね。(構成・山下賢次)

さんゆうてい・らくたろう 1950年2月8日生まれ、東京・両国出身。青山学院大学在学中の70年、三遊亭円楽にスカウトされ、入門する。76年に二ツ目に昇進。翌77年8月から「笑点」大喜利メンバーに抜擢された。81年に真打ちに昇進。94年からは中央医療福祉専門学校の客員教授に招かれるなど、落語界きっての知性派として知られる。

※この連載は2006年1月5日から「三遊亭楽太郎の初笑い 『笑点』の楽屋全部バラします!」というタイトルで全4回で紙面掲載されました。

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