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落球した私に近藤監督が激高!味方同士で乱闘騒ぎ【宇野勝連載#4】

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あの江川さんを打ち崩し劇的Vへの道開いた

 私は18年間のプロ野球人生で2度のリーグ優勝を経験できた。一度も優勝することなく、ユニホームを脱ぐ選手もいる中で幸せなことだと思うし、自分にとって誇りである。

 最初の優勝は1982年。監督は近藤貞雄さんだった。大洋(現DeNA)での監督時代に高木豊、屋鋪要、加藤博一さんの俊足トリオに「スーパーカートリオ」と名づけたアイデアマンだが、一方でとても熱い人でもあった。私もよく怒られた。実は試合中に私は観衆の前で近藤監督とやり合うという前代未聞の“事件”を起こしているのだが、それはまた後日に記そう。

近藤監督に注意される宇野

近藤監督に注意される宇野

 この年は最終戦に勝って優勝を決めた劇的なシーズンだった。中でも忘れられない試合がある。「ナゴヤ決戦」と言われた9月28日からの巨人3連戦の初戦。負ければ巨人のマジックが減る。逆にうちが勝てば逆マジックが出るという正念場だった。

 相手の先発は江川卓さん。今まで対戦した投手でナンバーワンは誰かと問われれば、私は江川さんと答えるだろう。球種は真っすぐとカーブしかないのに本当に素晴らしい投手だった。コントロールが良くて、とても頭も良かった。

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巨人のエース・江川を攻略したことが82年の中日リーグ優勝に結びついた

 カーブのある投手と対戦すると、どうしても高めを振ってしまう。軌道が高めに来ると真っすぐでも振ってしまうのだが、江川さんはそこを狙って計算して三振を取っていた。前年の81年に20勝6敗のキャリアハイの成績を挙げ、脂がのりまくっており、これ以上手ごわい相手はいなかった。

 試合は、その江川さんの前に9回表まで2―6で4点のリードを奪われていた。私は正直「もうダメだ」とあきらめていた。ベンチも明らかに負けムード。ところが、ここから信じられないことが起きた。

 明大時代から法政大の江川キラーとして鳴らした現在の中日合宿所「昇竜館」の館長である豊田誠佑さんが代打でまず左前打。モッカ谷沢健一さんも続いて無死満塁。大島康徳さんの犠飛で1点。そこで私に打席が回ってきて、あれだけ苦手な江川さんから左翼線にタイムリー二塁打を放った。何かが乗り移ったようだった。続く中尾孝義さんの右前打で私がホームを踏んで同点。あの江川さんから4点リードを追いついた。

 こうなれば、流れは中日。延長10回、代わった角三男から大島さんがセンター前にサヨナラヒットを放ち、マジック12を点灯させた。この奇跡的な逆転勝利で、私たちは優勝を確信した。

 ただし、この先の戦いは楽ではなかった。最終的には残り4試合でマジック3。10月18日の最終戦では選手の緊張を解くため、近藤監督がロッカーに缶ビールを用意するなどして何とか勝ち抜いた。あの時、私は飲まなかったけどね。

中日リーグ優勝でビールかけ(1982年10月)

リーグ優勝を果たして美酒を味わった中日ナイン(1982年)

 奇跡的な戦いぶりを見せた私たち。それが一転、日本シリーズでは運に見放されることになった。


日本シリーズでまさかの「審判石ころ事件」

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