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ベイダーはリングを下りると情緒不安定【タイガー服部が語る強豪外国人#1】

ドイツの公園で寝泊まりしていたベイダー

 今まで何人もの外国人レスラーの面倒を見てきたけど、ベイダーは良くも悪くも印象深い選手だ。

服部レフェリー(奥)はベイダーの激戦を裁いてきた。写真は藤波辰爾戦

 もともとはNFLのトッププレーヤーだったけど、ヒザのケガで引退した。その後、稼いだカネを元手に事業を始めたんだけど、スッテンテンになって、プロレスラーとして再起しようとミネアポリスのブラッド・レイガンズの道場で練習していた。アメフット仕込みのタックルで道場の戸を壊すこともしばしばだったらしい。

 評判を聞きつけた猪木さんとマサ(斎藤)さんが「こいつは逸材だ。使える」と新日本に呼ぼうとして、オレはヤツが転戦していたドイツのハノーバーに飛んだ。ベイダーは公園に止めてあるトレーラーに寝泊まりするほど落ちぶれていた。

 オレはすぐに契約できるものだと思っていたけど、口説き落とすのに何と2週間もかかった。ベイダーは全日本とてんびんにかけていたんだ。それでも「ミスター・イノキが『トップスターにしてやるぞ』と言ってるから来てくれ」という殺し文句でようやくハンコを押させた。

巡業中の深夜に電話をかけてくる

 その後たけしプロレス軍団(TPG)の刺客として猪木さんをKOしてセンセーショナルに日本デビューしたベイダー。白煙が噴き出るよろいもトレードマークの一つだけど、これには後日談がある。実はあのよろい、当時新日本で大暴れしていたバイオレンス・ウォーロードというレスラーのために作られたものだった。ところが、ヤツがWWEに転戦することになって、ベイダーに委ねられたわけだ。それにしても不思議なくらいよく似合っていた。肩幅もピッタリだった。

TPGの刺客として初登場したベイダー(87年12月、両国国技館)

 その後、新日本に5年ぐらい活躍していたけど、リングを下りると、少々神経質で情緒不安定な男だった。巡業中の深夜に電話をかけてくることもしばしば。内容は「オレの試合はどうだった」とか「オレの悪口を言っているやつはいないか」とかそんなのばっかりだ。

 当時ベイダーはグレート・コキーナ(ヨコヅナ)と仲が悪くて、コキーナの弟(ワイルド・サモアン)とのトリオで試合に出た時はタッチしてもらえないこともあった。だから周囲の評判が気になっていたんだろう。

 でもずうずうしいところもあった。プロレスで稼いだカネで家を買おうとした時に「新日本に保証人になるように言ってくれ」と要求してきたんだ。オレはいつも大イビキで巡業バスで寝ているアイツらしいなと思ったよ。もちろん、その要求はキッパリ拒否された。正直なところベイダーにはあまりいい印象はないけど、あいつはNFL時代に13回もヒザを手術したのに、プロレスをやっている見上げた男だ。これからも頑張ってほしい。

※この連載は2006年4月9日~5月まで全6回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やしてお届けします。


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