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当時解説者を務めたが、今でもあの奇跡的な熱狂が忘れられない【ハッスル連載#1】

はじめに

 世界を支配する全知全能の総統率いるモンスター軍が、元柔道五輪銀メダリストの暴走王をキャプテンとしたハッスル軍と抗争を展開。怒った時の総統はレーザー・ビターンを発射するんです。それは司令長官も止められませんでした。他にもドタキャン騒動を起こした狂言師が天から降りてきたり、ゲイの人気芸人が腰を振りながら会場を沸かせ、つまらないほうの相方はインドの狂虎と大流血戦の末、フォール勝ちしました。魔界の住人の毒霧を股間に浴びたエロ・テロリストは、ご懐妊して卵を出産。その中から元横綱が出てきたんです。私、頭がおかしいわけじゃありません。本当なんです。本当に見たんです。

高田総統(09年7月、両国)

一大ムーブメントを起こした「ハッスル」を検証する!

 今思えばすべてが夢のようだ。「ファイティング・オペラ」と銘打ったイベント「ハッスル」は2003年から09年までプロレス界の常識を覆すイベントとして、賛否両論を巻き起こしながら大ブームを呼んだ。芸能界を筆頭にありとあらゆる業界から選手を登場させて、暴走王・小川直也のハッスルポーズも世間一般にも広まる一大ムーブメントとなった。

 今となっては「ハッスル」のハの字を出す人間もいなくなり、まるで砂上の楼閣が崩れた後の海岸のようだが、ハッスルは確実に日本プロレス史にその名を刻みこんだことは間違いない。記者は05年から09年まで解説者を務めたが、今でもあの突発的な熱狂が信じられない。消滅から約13年、改めてハッスルとは何だったのかを検証したい。

榊原社長につかみかかる小川を橋本が制止する(03年12月、東京プリンスホテル)

 旗揚げ会見は03年12月4日。当時PRIDEを運営したドリームステージエンターテインメント(DSE)の榊原信行代表(現RIZIN CEO)の発言に怒った暴走王・小川直也がイスを投げて暴れたことからハッスルは幕を明けた。小川は大みそかのPRIDE男祭りに乗り込み、故橋本真也さんと、髙田延彦に宣戦布告。高田軍VS小川軍の戦いの構図が完成した。

にらみ合う高田軍(左)と橋本軍(03年12月、東京プリンスホテル)

 04年1月4日、さいたまSAで「ハッスル1」が開催され、小川は高田の刺客、ビル・ゴールドバーグに敗れた。PRIDEの外国人選手も多数出場して、内容は豪華を極めた。

ゴールドバーグに敗れ大の字になった小川直也(04年1月、さいたま)

 ハッスルとは対極にあると思われた全日本プロレスの3冠王・川田利明も「ハッスルK」として参戦。最初は硬かった川田だが、参戦を重ねるごとにノリノリになって歌謡ショーまで開催するようになり、意外なエンターテイナーぶりを発揮している。

「高田総統」の降臨は一斗缶で頭を殴られるような衝撃だった

 しかしハッスルが爆発的な人気を呼ぶ要因となったのが「ハッスル2」(04年3月7日横浜アリーナ)における「高田総統」の降臨だ。「宇宙戦艦ヤマト」におけるデスラー総統のような軍服に身を包み、ステージに登場したのだ。素顔(正体は不明)を知る人間にとってこの変身は、一斗缶で頭を殴られるような衝撃だった。

ハッスル2で降臨した高田総統(04年3月、横浜アリーナ)

 一方、いずれも敗退に終わった小川と橋本は「3、2、1、ハッスル、ハッスル!」のポーズで大会を締めくくった。つまり後の大ブレークの基礎は、この大会で完成していたのだ。試合をキッチリこなすのは大前提であり、大のオトナであるプロレスラーが真面目に自らのキャラクターをまっとうした上で、試合は激しく行う。これこそがハッスルの醍醐味であった。

ケビン・ナッシュに合体技を仕掛ける小川(左)と橋本(04年5月、横浜アリーナ)

 続く「ハッスル3」(5月8日横浜アリーナ)では小川と橋本のOH砲が総統の刺客、スコット・ホール、ケビン・ナッシュの大物コンビに快勝。勝利後は当時のゴルフ界の賞金王・片山晋吾をリングに上げ、3人でハッスルポーズを決めて、翌日は各メディアでも大々的に取り上げられた。ここからハッスルはジワジワと世間に浸透し始める。

ハッスルポーズを決める橋本、プロゴルファーの片山晋呉、小川(04年5月、横浜アリーナ)

 同年6月28日からは後楽園ホールで「ハッスル・ハウス」シリーズがスタート。これが大当たりだった。後楽園のバルコニーは高田総統が降臨するにうってつけの場所だった上、細かいスキットやスクリーンでのビジョン上映が見やすくなったためだ。そこに笹原GM(後に草間政一氏、鈴木浩子氏らに交代)、島田参謀長(後に二等兵に降格)、アン・ジョー司令長官などの絶妙のキャラクターが脇を固めるようになったのだから、面白さは倍増した。チケットは毎回ソールドアウトとなり、毎回超満員札止めを記録した。

小川(手前)に白使を披露する高田総統(04年9月、後楽園ホール)

 解説を務めて分かったのは、ハッスルの面白さを支えているのは選手やスタッフの情熱だということだ。試合以外のスキットや演出や舞台技術の作動などは何度もリハサールが繰り返され、細部に渡って細かい打ち合わせが行われる。事務所での会議は深夜まで及ぶことも日常茶飯事だったという。大げさではなく若いスタッフたちには「ひとつのエンターテイメント芸術を創造する」という熱意とエネルギーに支えられた一体感に満ちていた。

「インリン様」の登場、そして〝伝説の大会〟へ…

 やがてハッスル人気が順調に伸び、舞台セットや仕掛けが大掛かりになっていくと、米国最大のプロレス団体・WWEの技術スタッフからも注目を集めているという話も伝わってきた。04年12月にはエロ・テロリストのインリン・オブ・ジョイトイが高田モンスター軍のNO2「インリン様」として登場。「M字ビターン」で以降、重要な役割を占めるようになる。

インリン様として登場し、M字開脚を披露(04年12月、後楽園ホール)

 05年になると静岡、新潟、大阪など東京以外の開催も実現。同年7月11日には橋本が急逝するまさかの悲劇が起きるも、ハッスルはこの危機を何とか乗り越える。ここはキャプテン小川の力によるところが大きかった。

 そしてハッスルが世間的に一気に大ブレークする伝説の大会が実現する。

05年11月3日横浜アリーナの「ハッスル・マニア」開催だ。ドタキャン騒動の最中にあった狂言師・和泉元彌、人気急上昇中のハードゲイ芸人・レーザーラモンHGのデビュー戦には1万4573人の大観衆が押し寄せ、HGがインリン様をフォール。会場は異様な熱気に包まれた。入場式前から場内の興奮は頂点に達し、入場式を控えて浮足立つ選手たちに、小川は「おい、みんな! 落ち着け!」と声をかけたほどだったという。

渦中の和泉元彌がリング上で舞った(下は鈴木健想、05年11月・横浜アリーナ)

 この大会の模様は翌日のワイドショーを独占。ハッスルは「ファイティング・オペラ」として世間一般的にも認知されるようになる。わずか2年で足らずで上りつめてしまったのだ。(文化部専門委員・平塚雅人)

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