旬を逃してしまうと心が腐ってしまうこともある【野球バカとハサミは使いよう#23】
マネジメントに恵まれなかった〝アジアの大砲〟
2013年のWBC第2ラウンドで日本を苦しめた台湾。日本球界における台湾出身野手のパイオニアといえば、1988年に巨人に入団した右のスラッガー・呂明賜だろう。当時の球界には、一軍登録が可能な外国人選手は1球団につき2人までというルールがあり、巨人にはすでにクロマティと投手ガリクソンがいたため、呂は2人にアクシデントがあったときの保険という扱いだった。
したがって、入団当初は二軍暮らしが続いていたのだが、88年6月にクロマティが故障離脱すると、ついに出番が回ってきた。
すると、呂は一軍初出場初打席で初本塁打をかっ飛ばし、その後も10試合で7本塁打を量産。前傾姿勢の独特の構えから繰り出されるフォロースルーの大きなスイングは豪快かつ華やかで、マスコミから「アジアの大砲」とたたえられた。
しかし、そんな呂の勢いは最初の数か月しか持続せず、他球団による弱点研究が進むと成績が急降下。結局、88年は出場79試合で打率2割5分5厘、本塁打16本に終わり、さらに翌年はクロマティが復帰したことで再び二軍暮らしに戻ってしまった。
かくして呂は球界の一発屋タレントのようなイメージを持たれていることが多いのだが、実際はその後の彼も捨てたものではない。二軍生活にも腐ることなく打棒を磨き、89~90年はイースタン・リーグで2年連続3割2桁本塁打をクリア。弱点だった内角球にも対応できるようになり、次のチャンスを虎視眈々と狙っていたのだ。
しかし、それでも呂は一軍に呼ばれなかった。特に外国人が野手3人だった90年はクロマティが成績を落とし、新助っ人ブラウンも期待外れ。一方の呂は二軍で好調だったにもかかわらず、なぜかチャンスが回ってこない。そして翌91年、呂はついに緊張の糸が切れたのか、二軍でも打てなくなり、同年限りで解雇された。
これはサラリーマンの人材育成においても、胸の痛い話である。人材を育成するためには若手にチャンスを与えることが不可欠だが、そこでさらに重要になってくるのが、そのチャンスを与えるタイミングだ。
たとえば部下が小さな結果を着実に残しているなら、そのタイミングでワンランク上の仕事を任せてみるといい。人間には食材同様、旬の時期とそうでない時期があり、旬の時期には大きな仕事をやり遂げるだけのパワーが発揮されるものだ。
その一方で、旬を逃してしまうと、心が腐ってしまうこともあるから要注意だ。人材の旬を見極めることは、組織マネジメントの極意のひとつである。
セカンドキャリアの作り方
日本のプロ野球において、人気・伝統ともに突出している2大球団といえば巨人と阪神だろう。特に選手がそれを実感するのは、引退後に野球評論家に転身した場合である。巨人と阪神のOBのほうが他球団OBよりも仕事の量が多く、セカンドキャリアが充実しやすいのだ。
だからこそ、かつて1990年代のヤクルト黄金時代を支えた広澤克実は、現役後半に巨人、そして阪神に移籍したというだけで、引退後は主に阪神OBとして振る舞っているのだろう。それを証拠に広澤のブログは阪神に関する話題が中心で、タイトルも「トラさんのちょっと虎話」(※ブログの更新は2018年で止まったまま)である。ヤクルトファンの胸中は複雑だろう。
また、60~70年代に当時の大洋ホエールズの主砲として活躍し、ミスターホエールズとたたえられた松原誠もそうだ。
彼は現役20年のうち19年間も大洋で過ごし、大洋で通算2000本安打を達成したが、現役最後の81年だけ巨人に移籍した。もっとも、それは松原が望んだ移籍ではなく、大洋フロントともめたことによる放出劇だった。実際、松原は移籍会見で「巨人への憧れなんかない」と発言し、81年限りで引退すると、翌年には早くも大洋に打撃コーチとして復帰したのだ。
ところが、そんな松原も84年にまたも大洋を退団し、今度は打撃コーチとして再び巨人に入団。85~91年まで実に7年間も巨人で打撃指導を続け、いつのまにか巨人のイメージが強くなった。このころの巨人は、まだ全試合、地上波テレビ中継の時代であったため、松原の一般的な知名度も一気に高まったのだ。
これによって松原は、巨人のコーチを辞任して以降も「元巨人」という肩書を背負えることになった。現在は野球評論家として活動している松原だが、大洋OBとして、その大洋の系譜を受け継いだ横浜DeNAに関する仕事だけでなく、巨人OBとしての仕事も精力的にこなしている。彼のセカンドキャリアにおいて、巨人ブランドは好影響を及ぼしているに違いない。
これはプロ野球に限らず、あらゆるセカンドキャリアの作り方においても言えることだ。たとえばサラリーマンも転職してキャリアアップを果たそうと思ったら、転職先に対して自らを効果的に売り込む必要がある。
そのために重要になってくるのは、自らのこれまでのキャリアの中から転職先に対して最も影響力がありそうなものをアピールすることだ。セルフプロデュースとは客観的な自己分析から始まるのである。
※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。