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見つからないのがおかしいぐらい!?徳川埋蔵金伝説の真実

 過去の名コラムを発掘していたら、まさに〝お宝〟とも言える極上のネタが見つかりました。埋蔵金研究の第一人者・八重野充弘氏が東スポ本紙で連載してくれた原稿です。昭和や平成の時代に大いに語られ、話題になったアノ伝説を振り返ってみましょう。1回目は知名度ナンバーワン、「徳川埋蔵金」です。

大発掘が行われた赤城山麓は今…

 日本を代表する埋蔵金伝説といえば、幕末に江戸幕府を守り抜くために準備されたという徳川埋蔵金だ。明治のころから、おびただしい数の探索者が群馬県内各地を掘り返していたこともあって、マニアの間では以前から注目度ナンバーワンだった。それが広く国民に知られるきっかけとなったのは、TBSテレビの特番だ。地元出身のコピーライター糸井重里氏をリーダーとして、1990年から足かけ4年、重機を使った大がかりな発掘を行い、そのもようをオン・エアすると、視聴率は常に20%を超えた

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TBSによる発掘は大規模だった

 大人も子供も、重機が土をえぐっていく様子を固唾をのんで見守ったが、そこはとうの昔に“終わった場所”で、黄金が顔を出す可能性はほとんどなかった。地下深いところに現れた縦穴や横穴は、太平洋戦争の直前に軍隊が動員されて、いわば国家プロジェクトとして埋蔵金探しが行われた跡だったのだ。周辺に住む古老の中にはそのことを知る人もいたし、深さ60メートルに達した巨大な穴が、産廃処理場になるとウワサされたりしたので、住民から苦情が寄せられて打ち止めに。現在、穴は埋め戻されてはいるが、雑草しか生えない荒れ地となり、脚光を浴びた当時の面影はない。

 そもそも、赤城山麓埋蔵説は、明治初年に横浜で起きたある詐欺事件が発端で、それに尾ひれがついたもののようだ。では、伝説そのものに根拠がないのかといえば、そうでもない。最近の埋蔵金研究家は、同県内のほかの場所にもっと生々しい幕末の目撃談や痕跡が残ることから、赤城は囮だったか、あるいは途中で計画が変更されたとみて、有力な場所数か所の調査を続けている。

赤城以北にまだ有望な場所がある!

 かつて大発掘が行われた赤城山麓は、今は沈静化しているが、徳川埋蔵金探しそのものが幕を閉じたわけではない。赤城以北で、きちんと検証された情報や資料に基づく調査が進行中で、むしろブームのときよりも成果が期待できる。

 そのスポットの一つが、片品村山中にある金山の跡だ。村の中心地鎌田には、幕末の慶応4年春、武士団が8頭の牛に細長い木箱を2個ずつ背負わせて通過した目撃談が残っている。その行き先が、戦国時代から江戸中期まで金を掘っていた金井沢金山だったことはほぼ確実で、昭和30年代に古い坑道の奥で16個の千両箱を見つけ、1個だけを持ち出した人物がいることもわかっている。しかも、今行われている調査は、その人物の証言と遺言をもとにしているから、見つからないのがおかしいくらいだ。

 すでに2009年に、土砂崩れでふさがれていた坑道の入り口が見つかっている。奥行き100メートルもある坑道内での探索は、危険も多く、入山は初夏から秋までの約5か月に限られるので難航し、現在は中断している。

金井沢金山跡調査

2009年から数年間、金井沢金山の坑道内の調査が続けられた

 もう1か所、赤城北麓の昭和村長者久保も要注意だ。天保年間に幕府が備蓄用につくった重さ44貫(165キロ)の大金塊が、ここに隠された形跡があることを地元の研究家が突き止めた。大金塊の拓本を保存していた旧家があり、老中水野忠邦が立ち寄っていることから、幕府は外国船が開国を求めて日本に接近し始めたころから、江戸に万一のことが起こったときの備えをしていたと考えられる。場所も特定できているようなので、今後の調査を見守りたい。

大法馬金

分銅型の巨大な金塊。同じものが昭和村に…

長者久保の発掘

長者久保の発掘


 やえの・みつひろ 山に、海に、眠れる財宝を探して47年!のトレジャーハンター、作家。日本トレジャーハンティング・クラブ代表。1974年、熊本県天草下島での財宝探しを開始。以後、日本各地の埋蔵金伝説を求めて全国30数か所を歩き、これまで実際に発掘を行った場所も10か所以上にのぼる。財宝探しや埋蔵金に関する著書多数。公式HPでは徳川埋蔵金を題材にした小説「リカバリー」も公開されている。




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