ジャイアント馬場が"口撃"された!【プロレス語録#3】
これは“ギリシャの黒鷲”ジョン・トロスが初来日を控え、当時の日本プロレスのエース・ジャイアント馬場の身体的特徴を語ったセリフだ。トロスは1971年にロサンゼルスでアントニオ猪木に敗れ、UNヘビー級王座から転落。今も3冠ヘビー級王座の1つとして残るUN王座を献上した選手として、日本マット史にも名を残す。
昭和43(1968)年5月16日付の本紙には、トロスと“吸血こうもり”ロッキー・モンテロが、日本通を自称するバディ・オースチンから、馬場殺しの秘策を授かるという異色座談会の模様が掲載されている。
3人組は序盤こそ、威勢よく「馬場虐殺計画」を語っていた。だが途中からオースチンが「吉村(道明)はテクニシャンだよ」「(馬場は)不思議とスタミナのある男だ(中略)だからインターナショナル選手権を誰にも渡さないんだ」「猪木というのが馬場のパートナーだが、こいつが若いくせに荒っぽくて骨があるから油断するな」などと厳しく注意するから、様相が変わってくる。
しまいには「脳天チョップというのはかなりきくのか?」(トロス)とおびえたり、「あのデカいのがドロップキックをやるのか…」(モンテロ)と感心しだしてしまう始末。オースチンに「ふるえるな。バカ野郎!飛んできたら逃げりゃいいんだ」「2人ともに馬場を○○○にしてこいよ」とゲキを飛ばされ、座談会を終えている。
その巨体ゆえ、少年時代から様々なモノに形容されてきたであろう馬場さんだが、ミッキーマウスに例えられたのは、これが最初で最後だろう。
これは昭和40(1965)年に開催された、日本プロレス「第7回ワールドリーグ戦」に参加した時の“銀髪鬼”ブラッシーの名言だ。
豊登、ジャイアント馬場への殺気をムキ出しにしながらリーグ戦で暴れ回っていたブラッシーは、本紙で「銀髪鬼の血戦日記」なるコラムまで連載していた。
同シリーズでは5月3日、鹿児島・奄美大島名瀬市塩浜特設リングで大会が行われた。日光浴を楽しみつつ、ヤスリで磨いた自慢の歯でサトウキビにかみついていたまではよかったのだが、この後の船旅による移動で、心身を大いに弱めてしまったのだ。
「オレはプロレスラーになって30年近くなり、ビジネスのために相当過酷な旅を経験しているが、こんなひどい旅は初めてだ」
「鹿児島で買っていった船酔いの薬を50錠も飲んで吐き気をストップさせたが、おかげで調子がすっかり狂ってしまった」
「畜生! 誰がこんな旅を計画したのかと昨日からグラグラする頭を絞って考えたら、それが“日本組の陰謀”であるとはっきりわかった。聞くところによればトヨノボリやババは飛行機で島から帰ったそうじゃないか」
「このグレーテスト・ブラッシーさんの力を少しでも弱めよう、調子を狂わせようという深謀遠慮だったのか…」などと怒りとグチ、ボヤキと脅迫のオンパレードだ。
その半面、コラム内では米国のガールフレンドの自慢話などもしている銀髪鬼だが、ちょうどこの直後に立ち寄った小倉駅で、後に生涯を共にすることになる三耶子夫人と運命の出会いを果たすのだから、人生は面白い。
※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。