見出し画像

身長209cmのジャイアント馬場を初めて生で見て…【プロレス語録#11】

 インターナショナルヘビー級王者のジャイアント馬場は1966(昭和41)年9月、選手13人を引き連れ、東京・八丈島で約1週間もの大トレーニングキャンプを敢行した。

 このセリフは馬場ら日本プロレス一行を出迎えた八丈島の人々が、馬場の巨体と雄姿に思わず感嘆して漏らしたというひと言だ。

八丈島の海でトレーニングする馬場

 為朝とは言うまでもなく、平安時代末期の保元の乱で敗れ、伊豆大島へと流刑となり、その後も伊豆諸島で暴れ回ったとされる源為朝《みなもとのためとも》(鎮西八郎)のこと。為朝は身長が7尺(約212センチ)という巨体を誇ったとされており、209センチの馬場とはかなり近い体格。初めて“ナマ馬場”を目撃した八丈島の人々が「為朝以来の勇者」と称したのも納得だ。

 馬場をリーダーとし、ミツ・ヒライ、星野勘太郎、山本小鉄、林牛之助、高千穂明久ら総勢14人もの一行は9月13日に羽田空港を出発。八丈島に到着すると、八丈空港開設以来の人出となる約200人ものファンの歓待を受けた。島挙げての大歓迎は、日プロ勢のために肉牛4頭が丸ごと用意されるほどだった。

歓迎の花束を贈呈される馬場(66年9月、八丈島空港)

 当時の八丈島は、NHK総合以外のテレビ放送は受信できず、民放の日本テレビで放送されていたプロレス中継は、当然、見ることができない状況だった。

 ところが約2万円をかけて、電柱ばりの巨大アンテナを設置する家が島内に11軒ほど存在し、プロレス中継のある金曜夜は、その家庭にファンが集結し、馬場のファイトを楽しんでいたことが判明する。

「プロレス放送のある日は整理券まで出す」(ある巨大アンテナ設置者)という熱心さで、本来なら「プロレス未開の地」であるはずの八丈島でも、すでにプロレス人気が高まっていたという。



 後に「マイクの鬼」と呼ばれることになるラッシャー木村が1981(昭和56)年9月23日、新日本プロレスの東京・田園コロシアム大会で放った「こんばんは事件」はあまりに有名だ。

 国際プロレスのエースだった木村は、団体の崩壊と同時に、アニマル浜口、寺西勇の3選手で新日プロに乗り込み、対抗戦に乗り出すことになった。

 10月8日の蔵前国技館大会で木村と猪木の一騎打ちが決定。ファンのムードも殺気立つ中、決戦を半月後に控えた国際軍団は田園コロシアムに姿を現す。だがリング上で猪木と対峙し、マイクを手渡された木村はいきなり「こんばんは」と礼儀正しくあいさつしてしまい、ファンの失笑を買うことになる(マイクは即座に横にいた浜口が奪い取り、たけだけしく新日プロ勢とファンを挑発)。

プロテクターを着けたアニマル浜口に肝臓破りのチョップを打ち込む木村(左)。これが秩父特訓のハイライトだった

 礼儀正しい上に言葉も足りず、アピールに失敗した木村はその頃、対抗戦に向け、浜口、寺西と3人で埼玉・秩父で特訓に明け暮れていた。これは「こんばんは事件」の翌日、秩父の荒川上流付近で特訓中の木村が漏らした、補足と説明のひと言である。

 木村は東京プロレス時代、猪木とは社長と若手レスラーという関係にあった。

 だが東京プロ崩壊後、猪木は日本プロレスに復帰。残された木村は国際プロレスに身を投じ「金網デスマッチの鬼」として猪木と肩を並べる存在にまで浮上する。

 74年、木村は猪木に挑戦状を出すも、猪木は一笑に付し、木村を徹底的に格下扱いして対戦案を一蹴。

 その時の屈辱的な恨みを忘れぬ木村はこのセリフを吐き、黙々と猪木への闘争心を燃やしていたのだった。

 ちなみに初の一騎打ちは猪木の暴走で、木村が反則勝ちを収めた。

東京プロレス時代、USヘビー級王座を防衛した猪木を祝福する若手の木村(左奥、66年11月、東京・大田区)

カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ