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「おふくろの味」を確認するため、おふくろに電話してみた。

スーパーマーケットから卵が消えて、寂しいというかつらい。ご存じの通り、鳥インフルエンザの感染拡大によるものなのだが、TKG(卵かけごはん)が大好きな私にとっては由々しき問題である。思わずガランとした卵売り場の片隅に並んでいたうずらの卵を買うか思案したほどだ。そういえば母が作る卵焼きはとにかく甘かったような――。

「おふくろの味」は幻想らしい

『「おふくろの味」幻想 誰が郷愁の味を作ったのか』(光文社新書)という本を読んだ。

著者は法政大学人間環境学部の湯澤規子教授で、男女や世代によってイメージが異なる「おふくろの味」を社会や時代の関連から解き明かそうとする意欲的な1冊でめちゃくちゃ面白い。せっかくなので、料理も料理本も好きな私が膝を打った箇所を引用しておこう。

 料理や食が軽んじ始められた一九八〇年代以降、「一日三〇品目」や錯綜するレシピの大海に漂いながら料理を任せられるようになった女性たちは、それを楽しみつつ、混乱しつつ、疲弊しつつ、辟易しつつ、諦めつつ、時に孤立を深めることもあった。
 しかし、そうした閉塞感が漂い始めた台所には小林カツ代によって風穴があけられ、世紀転換期においては栗原はるみによって新しい世界が鮮やかかつ軽やかに提示された。それは日々を生きることと料理をすることがつながっているのだという、ごくシンプルな原点へと私たちがたどり着くための地図であり、レシピにほかならなかったのである。

湯澤規子『「おふくろの味」幻想』(光文社新書、2023年、245p)

この本を読み終えると、自分にとっての「おふくろの味」が何なのかを考えさせれる。本の帯には「なぜ私たちは肉じゃがにほっとしてしまうのか?」というコピーとめちゃくちゃおいしそうな肉じゃがの写真が添えられているが、私にとって「おふくろの味」は…肉じゃがではない。大学進学のためにひとり暮らしを始めて以来、母のごはんを食べる機会は極端に減ったが、たまに実家に帰ると母はベビーリーフと謎の野菜にオリーブオイルと塩をかけて食べていたりするのだ。

「あの~、この奇妙な見た目の野菜は何?」
「あら、知らない?ロマネスコっていってカリフラワーの仲間なのよ」

読書すると、普段思いつかないことが浮かびます!

母68歳にとっての「おふくろの味」

私が子供のころにはロマネスコなんてなかったし、オリーブオイルもそれほどメジャーではなかった。母が作る料理は時代に合わせて明らかに進化しているのだ。だとすれば私の「おふくろの味」は何なのか、もしかして消えてしまったのではないか…と色々気になり始めたので、久しぶりに母に電話をかけてみた。

「『おふくろの味』って何かと思って考えてみたんだけど、ポテトサラダにリンゴが入っていることくらいしか思いつかない。じゃ、おばあちゃんの味は何かと思ったら、昔おばあちゃんの家で食べたバーモントカレー(ハウス食品)とナンバーワンうどん(日清製粉)しか思いつかなくて、どちらもスーパーで売ってるやつなんだよね」

「そうだね、おばあちゃんが若かったころはカレールーなんてものがなかったから赤缶カレー粉(エスビー食品)からカレー作ってたのは覚えてるけど、ルーになってからはバーモントしか買っていなかったわね。『おふくろの味」ねぇ、お母さんにとっては豚カツとポテトサラダかな…」

「え、まさかの洋食?」

「昔は土曜日も学校があったでしょ。でも給食がないからお昼まで授業受けて家に帰ると、おばあちゃんが豚カツとかコロッケとか洋食を作ってくれたのよ。もちろん、フツーの平日は魚と煮物だったり和食なんだけど、土曜のお昼だけ洋風になっていたのをすごく覚えてて、その味は外のお店で食べる洋食とはまた違うものだったから、『おふくろの味』だなって」

祖母は1932(昭和7)年生まれ、母は1954(昭和29)年生まれなので、1960年代中盤の食卓の話である。日常的には和食が中心だったが、家庭料理に洋食が入り込んできたことで、母にとっては祖母が作る洋食が「おふくろの味」に感じられるようになったというのだ。やはり「おふくろの味」という概念は多義的なのだ。

専業主婦の手作りプレッシャー

私は母の料理が時代に応じて変化していることについても話を振ってみた。

「実家に帰ると、とにかく料理の品数が多いって思うんだよね。自分だったらごはん、みそ汁、生姜焼きみたいにおかず1皿で十分だって思うけど、そこに煮物とか煮魚とかまで出てきたじゃん?それこそ1日30品目のプレッシャーはあった?」

「それはね、あのころ(1990年代)の専業主婦には子供に対して何でも手作りするのをよしとする風潮があったのよ。あなたたちが幼稚園に行くときの手提げとか学校に持っていく雑巾とかもそう。子供が生まれてからは栄養があるものを食べさせなきゃと思って、ごはん、みそ汁に肉、魚、野菜、あとはお漬物みたいな箸休めを作るものだと思っていたの。大変だけど、仕事みたいなものだと思ってた(笑)。今は自分が食べたいものを作るし、冷食もホントおいしくなって便利よね~!」

「ちなみにウチの卵焼きはなんで異常に甘いの?」

「おばあちゃんの時代には、お砂糖が高級品っていうイメージがあったから、甘いほうがぜいたくしてる感じがあったからじゃない。異常に甘いなんて失礼ねぇ。そんなこと考えたこともなかったわ(笑)」

砂糖は高級品、で思い出した取材

砂糖が高級品という母のひと言である取材を思い出した。
2015年に亡くなった元「安藤組」組長で俳優、作家として活躍した安藤昇さんにインタビューしたとき、〝砂糖壺〟が話題になったのだった。

 あれは終戦から4か月ほど経ってからだったかな。銀座に「チョコレート・ショップ」という、うまいコーヒーを飲ませる店ができたという話が聞こえてきてさ。舎弟を連れて行ったんだ。
 当時、銀座も一面焼け野原だけど、さすがに銀座だよな。復旧がめざましくてさ。急造りの建物は、ベニヤ板にペンキを塗った誤魔化しが多かったけど、どこの街より華やいでいた。
 で、「チョコレート・ショップ」へ行って、ドアを開けると、足を踏み入れるより先に甘いミルクとコーヒーの香りがプ~ンと鼻孔をくすぐってきた。何年ぶりかで嗅ぐ本物のコーヒーだからね。匂いを胸一杯に吸い込んだことを今も覚えているよ。
 店の中は白とコゲ茶色で統一されていて、当時としては驚くほど洗練されていた。ウェイトレスはピンクの制服でさ。可愛くて、アカ抜けしていて、舎弟が「コーヒー、二つ」と言うと、
「ツー・コーヒーですね」
 と、気取った英語で注文を繰り返されて、びっくりさ。つい4か月前まで、英語は〝敵性語〟として禁止されていたんだから。
 コーヒーもさることながら、目を見張ったのは各テーブルに置かれた砂糖壺。戦時中、砂糖は超の字がつくほど貴重だったからね。それをご自由にどうぞと置いてあるんだから、舎弟が「持って行かれたらどうするんだ」と心配してさ。笑い話だね。
 いま日本は世界で最高級のコーヒーが飲める国になった。〝豆ヒー〟の話をしても、冗談にしか聞こえないだろう。
 昔を懐古するつもりはないけど、コーヒー一杯にさえ、語るべき時代と思い出があるのさ。

東京スポーツ、2015年8月19日付紙面

戦後日本で砂糖は1952(昭和27)年まで配給制だった。復興とともに砂糖の消費量は増え、1人あたりの年間消費量は1974(昭和49)年の30.4kgがピークで、2019(令和元)年には約16kgまで半減している。

1974年は私の母がちょうど20歳だったタイミングで、もしかしたら甘い卵焼きの中に母の青春が隠れているのかもしれない。

また今度電話したときに、聞いてみよう。(東スポnote編集長・森中航)


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