近鉄移籍で顔つきまで変わった投手【野球バカとハサミは使いよう#34/最終回】
トレード移籍で放出されても謙虚に投げ続けた
香田勲男といえば、1980年代後半~90年代にかけて、天下の巨人軍の先発ローテーションの一角だった好投手である。
140キロ超のストレートと90キロ台のスローカーブを武器に、90年には11勝。当時の巨人は斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の3本柱が全盛期だったが、これに香田と宮本和知を加え、5本柱と呼ばれることもあった。
中でも香田の名前が脚光を浴びたのは、近鉄と激突した89年の日本シリーズだ。このシリーズで巨人は球団初の日本一を目指す近鉄に初戦からまさかの3連敗を喫し、あと1敗も許されない窮地に追い込まれた。そこで第4戦に先発した香田が近鉄打線を3安打に抑え、見事な完封勝利。これで勢いづいた巨人はそこから4連勝を飾り、大逆転で日本一を勝ち取ったのだ。
しかし、そんな香田もやがて不振にあえぎ、巨人で働き場所を失っていく。そして94年はわずか2勝に終わると、オフには他球団にトレード放出。運命とは不思議なもので、その放出先こそが、かつて香田に辛酸をなめさせられた近鉄だった。
近鉄ファンにしてみれば複雑な移籍だっただろうが、当の香田は元巨人の5本柱というブランドを振りかざすことなく、近鉄では地味なリリーフとしてフル回転。のちに某インタビューで「自分では巨人の5本柱だったとは思っていない。家だって柱は4本なのだから」と答えるなど、謙虚に投げ続けた。
そして2001年の近鉄最後のリーグ優勝に貢献した香田は、そのころには“巨人臭”が完全になくなり、外見も荒々しさ漂う“近鉄顔”になった。その年のヤクルトとの日本シリーズでは、近鉄の投手としてマウンドに上がった香田がヤクルト打線にめった打ちされるなど、今度は近鉄の内部から再び近鉄日本一を阻んだとやゆされたりもしたが、それもご愛嬌だろう。晩年の香田は身も心も近鉄一色となり、近鉄ファンから大いに愛された。
これはサラリーマンの世界に置き換えると、業界最大手の大企業から同業種の2番手以下の企業に転職した男の物語だ。そういうときは、この香田が元巨人という看板を利用しない生き方を見せたように、過去の栄光を振りかざすことなく、ゼロからのスタートのつもりで、その企業に求められている役割を地道に果たすべきだろう。
そうすると、必ず新天地で愛されるようになり、顔つきまで変わってくるに違いない。引退後の香田が近鉄の投手コーチまで務めた(その後、巨人コーチも経験した)ように、長期雇用につながることもきっとあるだろう。
※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全34回でお届けしました。