見慣れない「横浜」のユニホーム。似合っているのかどうか、窓ガラスを何度ものぞき込んだ【仁志敏久連載#10】
FA権を行使したのは、一度は米国でやってみたかったから
2004年オフ、シーズン中に取得したFA権を行使することはある程度決めていました。
ただ、国内球団への移籍は考えていませんでした。選択肢は残留かメジャー。メジャーを甘く考えていたわけではなく、とにかく米国に行ってプレーしたかったのです。
海外での野球の楽しさはアマチュア時代から感じていました。フィールドの美しさや何となく感じる開放感。思い切りのいいプレースタイルも大好きでした。そういった意味で2年に一度の日米野球は楽しみで仕方なかったのです。
FA宣言する意向を表明してから、清武英利球団代表とも話し合いました。「来年も巨人に残ってほしい」。その言葉は素直にうれしく、それまでの巨人への思いとともに感謝の気持ちでいっぱいでした。
FA宣言したが、最終的には残留を選んだ仁志
しかしながら、やはり「一度は米国でやってみたい」という思いも強く、10月27日に正式にFA宣言。同時にスコット・ボラスと代理人契約を結びました。
しかもこの年、日米野球のメンバーに選ばれ、またとないチャンスを得たのです。ところが、そううまくはいきませんでした。17打数2安打と結果は散々、アピールどころではなかったのです。
オフになると「○○○がリストアップした」「×××が興味」など、報道されましたが、それはスカウトレベルの話。
いよいよウインターミーティングが始まっても市場の動きは遅く、途中経過すら聞くことができません。
それに加えて代理人のボラスは超大物。大型契約となる選手が多いことで有名です。この時もエイドリアン・ベルトレ、カルロス・ベルトランなどの大物選手を抱えており、順番からいえば、実際に交渉のテーブルに載せられたかどうかも微妙だと思っています。
翌年の1月中旬くらいまでは待とうと思っていました。しかし、巨人側から12月20日までに返答をしてほしいとの要望があり、考えました。
先行き不安でも待つべきか。それともとりあえず、ここはこらえるべきか。特に巨人に不満があったわけでもありませんから、残る選択肢も自分にとっては悪いわけではありません。
そして出した決断は「とりあえず封印」。諦めたわけではなく、楽しみは少しだけ取っておこうと思ったのです。
ただ、FA宣言した時点で態度をはっきりすべきだったのです。行くのか、行かないのかを。待たされる巨人にとっては編成上、早くしてもらわないと困るだろうし、米国に話を持っていった以上、行くと決めて集中すべきだったのです。
結果的に残留は間違っていなかったと思います。2年という契約が良かったとは言い切れませんが、学ぶことはまだまだあったことは確かです。
今思えば、それからが修業の始まりだったように思います。
「復調交流戦」最後の最後に落とし穴
FA残留の気持ちも整理がつき、キャンプ、オープン戦と順調にこなし、2005年シーズンが開幕。この年のスタートも1番としてでした。
しかし、力を抜いて引きつけるような前年のバッティングができません。同じことをしているつもりなのですが、タイミング、体重移動がどうもしっくりこないのです。そのため開幕後は思ったようには結果が出ず打率は2割3分台をウロウロ。当然1番としての役割など果たせず、5月に入るころには9番に下げられることもあったのです。
チームも開幕から4連敗と最悪のスタート。4月は9勝16敗と大きく負け越し、最下位に低迷していました。
どうにか上昇しようと個人的にもチームとしてもきっかけを探します。
5月6日、この年から導入された交流戦が始まりました。それまでなかったパ・リーグとのレギュラーシーズンでの戦いは非常に新鮮でした。
開幕は新規参入の楽天。1打席目にショートへ内野安打を放つと、3打席目にレフト前へ。4打席目にレフトへ2ラン。4打数3安打2打点といいスタートを切りました。そして翌日もホームランを放つなど徐々に自信が戻ってきたのです。
結局、交流戦は打率3割5分9厘、4本塁打、15打点。4月の不振を何とか取り戻すことができました。
川上憲伸から2点タイムリーを放った仁志(05年8月)
ところが、交流戦の最後に落とし穴が待っていました。最終日の6月16日に腰を痛め、公式戦再開後には登録を抹消。調整期間中にも悪化させてしまい、再登録後はまた徐々に成績が落ちていってしまったのです。
それまで腰に不安など持ったこともなく走り回っていましたから、長い時間のゆがみが出たのでしょう。この時始まった腰痛がその後もプレーの邪魔をし、背中を真っすぐにすることすら困難なこともありました。
チームはすっかり5位に定着。勝っては負けの繰り返しで全く上昇気配もありません。
正直、1番へのこだわりが薄れていました。6、7番辺りでも十分だと思っていたのです。
シーズンは淡々と流れ、チームはそのまま5位で終了。最下位にならなかったことは幸いでしたが、2年連続V逸で、しかも5位に甘んじた責任を取り、堀内恒夫監督が退任。再び原辰徳監督の誕生となったのです。
原監督の就任会見、左は滝鼻オーナー(05年10月)
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