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子供の頃に習っていた空手を盗塁に応用した【高橋慶彦 連載#2】

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速いだけで何とかなるほど盗塁は甘いもんじゃない!

 結論から言うと、プロ2年目の1976年も一軍では戦力になれなかった。インターネットなどで調べてもらえば分かるけど、残っている数字は試合数の「5」だけ。あとはすべて「0」となっている。

盗塁する大下剛史(75年9月、川崎球場)

盗塁する大下剛史(75年7月、川崎球場)

 古葉竹識監督の方針で「ポスト大下剛史」として期待されていた俺は、この年の開幕直後にプロ初出場の機会を得た。与えられた役割は代走だ。でも、盗塁、盗塁死とも「0」であることが証明しているように、何もできなかった。初出場となった4月7日のヤクルト戦(広島)は先発の池谷公二郎さんが序盤に炎上して、2回に代走で指名されたんだけど、一塁ベース上で最初に感じたのは「二塁って、あんなに遠かったっけ?」ってことだった。今も昔も塁間は27・431メートルと定められているのに…。それだけ自信がなかったんだろうね。

 再び二軍で修業の日々を送ることにはなったけど、徐々に結果が伴うようになっていった。

 7月には、川崎球場で行われたジュニアオールスター(現在のフレッシュオールスター)のメンバーに選出されて全ウエスタンの「1番・ショート」でスタメン出場した。

北別府学(79年8月、横浜)

チームメートだった北別府学(79年8月、横浜)

 この年は後に一軍で活躍する選手も多くて、全ウの先発を務めたのはチームメートでもある北別府学だった。ほかにも中日の田尾安志さんや阪急の簑田浩二さん、全イには巨人の山本功児さんや中畑清さんなどがいた。そんな中で迎えた第1打席、全イ先発のヤクルト・永川英植が投じた3球目をジャストミート。左翼ポール直撃の先頭打者本塁打を放って優秀選手賞に選ばれた。ちなみに2打席目以降は三振、右飛、三振、三振と散々だったんだけどね。

中日の田尾安志(76年7月、川崎球場)

中日の田尾安志(76年7月、川崎球場)

 数年後の1番打者に期待されていた俺は、二軍戦でも積極的に盗塁を試みるチャンスをもらっていた。ガキのころから足は速かったけど、速いだけで何とかなるほど盗塁は甘いもんじゃない。相手投手との駆け引きやスタートのタイミング、スライディングの技術など、身に付けなければならない技術は多い。そしてそれらは、経験を積んで体に染み込ませるしかなかった。そんな時、意外にも役に立ったのが、ガキのころに遊びで習っていた空手の経験だったんだ。もちろん相手に跳び蹴りを繰り出すってわけじゃないよ。回し蹴りの時の膝下の使い方はスライディングと似ていたし、手のひらの手首に近い肉厚な部分で相手の顔面を狙う掌底打ちの動きはヘッドスライディング時に応用できた。

 こういうのって大事なんだよね。今は親御さんが野球なら野球、サッカーならサッカーと子供たちを一つの競技に縛りつけてしまう傾向にあるみたいだけど、他競技で学んだことが役に立つってことは意外に多いんだ。せっかくの機会だから、次回以降はちょっと寄り道して、ガキのころの話でもつづってみようと思う。

〝重い硬球〟と〝鉛のバット〟で鍛えた中学時代

 野球を始めたきっかけは、月並みだけどオヤジとのキャッチボールだった。あれは清瀬市立芝山小学校の3年生のころだったかなあ。芝浦工業大学のスキー部で監督をやっていたオヤジが、野球部からお古のグラブをもらってきてくれてね。時間があると、自宅前の道路でボールを投げ込んでた。

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ヤンチャだった高橋少年は生傷が絶えなかった

 そのうちキャッチボールだけでは物足りなくなって、5年生の時にチームを作ったんだよ。

 近所の仲間を集めて。俺は、ボーイズリーグとかで野球をしていなかったからさ。チーム名は「ラッキーズ」。俺の人生と一緒で“幸運”から始まったんだ。

 そのチームで俺はキャッチャーをやった。どんな経緯でそうなったかは覚えていないんだけど、うまいヤツがたくさんいたから花形の投手や内野手が回ってこなかったのかなあ。でも、当時は人気アニメ「巨人の星」の影響もあって、巨人の森祇晶(当時は昌彦)さんに憧れていてね。背番号も森さんと同じ「27」だったんだ。裕福な家庭ではなかったから、ユニホームはおふくろの手作りでさ。

巨人の森昌彦(66年2月、宮崎)

高橋があこがれた森昌彦(66年2月、宮崎)

 本格的に打ち込むようになったのは、清瀬第二中の野球部に入ったころからかなあ。中体連(中学校体育連盟)の試合で2回戦負けしちゃうような弱いチームだったんだけどさ。コーチを務めていた用務員さんが、けっこう厳しい練習を課す人でね。練習時間は授業が終わってからの2時間程度だったけど、やたらと走らされた。

 当時の俺には「高校生になったら甲子園に出るんだ」という明確な目標があったから、自主練習もよくした。学校で的を描いたコンクリートの壁に向かって、一人で投球練習をしていたこともあったけど、メーンは帰宅後のバッティング練習。来る日も来る日も、オヤジと一緒にティー打撃をした。

 それも、ただのティー打撃じゃないんだ。ボールはオヤジが大学からもらってきた硬球なんだけど、練習する前にバケツの水に浸すんだよ。重くするために。バットも特殊でさ。当時の木製バットには空洞部分があったんだけど、穴を開けてそこに溶かした鉛を流し込んだものを使っていた。手首を強くするために。

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父の慶喜氏はたびたび神宮球場や広島市民球場を訪れ、息子のプレーをスタンドから見守った

 若いころにノルディックスキーの選手だったオヤジは、とにかく妥協を許さない人だった。

 自分も現役時代は練習で手を抜くようなことはなかったそうだから。4歳まで住んでいた北海道の芦別では、乳飲み子だった俺をオンブしてスキーの練習をしていたこともあったらしい。俺は覚えていないけれど。そういう厳しい人だから、親子が衝突することもしばしばあった。

甲子園を目指し電車の中でも「爪先立ち練習」

 誰も意外には思ってくれないだろうけど、ガキのころの俺はヤンチャだった。細かい“罪状”までは覚えていないけど、イタズラで他人の家の窓ガラスを割ったりね。そんなことをすれば当然、オヤジの雷が落ちるわけだけど、一番きつかったのがバットの上での正座だった。

 自分では悪いことをしたと思っていても、謝るのが嫌でね。そうすると2本のバットの上で正座させられている俺の太ももにオヤジが乗るんだ。そりゃあ、もう痛くて痛くてね。

 そのせいか、当時の俺はオヤジの好きなものを嫌っていた。特に嫌いだったのが、相撲とプロレスとプロ野球。テレビなんて一家に1台の時代だったのに、チャンネル権はオヤジひとりが握っているわけだから。野球を「する」のは好きだったけど「見る」のは嫌いだった。

 中学生の時に、一度だけオヤジに連れられて後楽園球場で巨人―阪神戦を見たことがあるんだけど、記憶に残っているのは「代打で出てきた阪神の安藤(統男)って選手は、寡黙な感じでカッコイイな」っていうことぐらい。そもそもプロ野球には興味がなかったんだよね。

阪神監督時代の安藤統男(右、82年4月、神宮球場)

阪神監督時代の安藤統男(82年4月、神宮球場)

 でも、小学生時代からの夢だった「甲子園」に対する思いは強かった。だから、高校への進学は真剣に考えた。あんまり人には言ってないけど、名門・早稲田実業も一般受験で受けたんだ。落ちたけど…。野球ばかりで勉強なんてろくすっぽしていないんだから、無理もないよね。

 そんな中で選んだのが城西高校だった。中学の先輩からの誘いもあったし、学校自体が本気で甲子園を目指していたこともあってさ。

 なんとか甲子園への道のスタートラインには立ったけど、当時の城西高の野球部は大所帯で大変だった。

 同級生だけで100人近い部員がいるんだもん。練習は荒川の河川敷にあるグラウンドでやるんだけど、バッティング練習は5か所同時で行う“打ちっぱなし”状態でさ。俺はピッチャーだったから、ひたすら打撃投手として投げ続けるわけ。1日300球なんて、ざらだった。それが終わったら、ひたすら河川敷を走る。そんな厳しい練習のおかげで、夏の終わりには同級生が30人弱に減っていた。

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城西高のエースで4番だった高橋は荒川河川敷で練習に明け暮れた

 それでも「甲子園に出たい」という気持ちが強かった俺は、寸暇を惜しんで練習した。自宅のある清瀬から校舎のある西武池袋線の椎名町、椎名町からグラウンドの最寄り駅だった東武東上線の成増、成増から清瀬までの移動中も無駄にはしなかった。電車の中でできることなんて限られているんだけど、脚力強化と体のバランスを養うために、いつも爪先立ちをしてた

 そんな日々の努力が実る形で、3年生の夏に甲子園への切符を手にしたんだけど、順風満帆だったわけじゃない。俺の甲子園への思いが強すぎたばっかりに、ちょっとしたトラブルまで起きていた。

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たかはし・よしひこ 1957年3月13日生まれ。東京都出身。城西高のエース兼4番として74年夏の甲子園に出場。同年のドラフト3位で広島に入団。3年目にスイッチヒッターに転向し、78年からレギュラーとして定着する。広島に在籍した15年間で4度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。79、80、85年に盗塁王に輝く。79年には現在も日本記録である33試合連続安打を達成した。89年オフにロッテ、90年オフに阪神へ移籍し、92年に引退。その後は指導者としてダイエー(現ソフトバンク)、ロッテを渡り歩いた。

※この連載は2013年1月8日から3月8日まで全34回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。


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