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甲子園が終わって2か月。凱旋準優勝パレードの沿道は人、人、人【太田幸司連載#8】

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1人で27回383球を投げ抜いて、インタビューでは強がってみたものの本音は「もう投げられない」

▽決勝再試合
松山商200002000=4
三 沢100000100=2

 ボクは松山商に4点を献上し、味方打線は相手のジグザグ継投にかわされた。昭和44年8月19日午後3時6分。第51回全国高校野球選手権大会は松山商が三沢高を下し、16年ぶり4回目の優勝を飾って幕を閉じた。2日間の合計試合時間は6時間22分。27イニングを1人で投げ抜いたボクの球数は383。球史に残る壮絶な戦いはようやく決着がついた。

「やっと終わったか」。三塁ベンチ前に整列して松山商の校歌を聞きながら、ボクは何ともいえない爽快感に包まれていた。試合途中から勝ち負けなんかどうでもよくなり、何とか決勝戦にふさわしい試合にすることしか頭になかった。2―4だったら上等だ。全身の筋肉がバリバリに張って、まともな球を投げられなかったから、ボロボロの試合になるんじゃないかと思っていたほどだ。周りの選手たちはみんな泣いていたけど、ボクは不思議と悔しさがこみ上げてこない。涙の一滴も出なかった

 達成感とでもいうべきか。試合後のインタビューでは「投げろと言われれば、まだ投げます」と話したが、それは負けん気の強さを示しただけで本音はもちろん違う。「どれだけ頑張れと言われても、もう力が出ません。投げられません。堪忍してください」。そんな気持ちだった。バックスクリーンのスコアボードを見ながら、本当にすがすがしかった。その先には雲ひとつない紺碧の空。甲子園の浜風が心地よかった。

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甲子園の土を袋に詰め込む太田氏

 当時は「よくぞ倒れずにマウンドに立っていたな」とよく言われた。生まれ変わって同じことをしてみろと言われても、絶対にできないだろう。何がそうさせたのか。自分でもはっきりした答えは見つからないが、思い当たることはある。

 ボクたちは1年間を通じて野球のボールを追える環境にはない。冬は辺り一面が雪に覆われ、ウズウズと野球がやりたくて仕方がない精神状態になる。春が来て、それが一気にはじける。とにかく野球がしたくてたまらないから、炎天下の過酷な状況でも踏ん張れたような気がする。気の遠くなるような383球は、我慢強いといわれる雪国の風土が支えてくれたのかもしれない。

 ダッシュで三塁側アルプス席へ向かい、熱心な応援に感謝する。万雷の拍手と大声援に迎えられた。大会歌の「栄冠は君に輝く」が流れる中、主将の河村が準優勝盾を抱え、優勝旗を持つ松山商の後に続いて場内を一周する。ここでも大歓声を浴びた。バックスクリーンへ上がり、ロープをたぐり松山商ナインと一緒に国旗を降下した。

「さよなら甲子園」――。日の丸を見ながら、ボクは心の中でそっとつぶやいた。

グラウンド外で起きたコーちゃんフィーバー、日本選抜に選ばれると島岡御大のゲンコツにびっくり

 グラウンド外はとんでもないことになっていた。女子中高生を中心とした熱烈なファンが大挙して押し寄せ、三沢高をマークする。お目当てはボクだ。3季連続の甲子園出場で名前はそこそこ知られてはいたものの、昭和44年(1969年)夏の甲子園大会で大旋風を巻き起こしたことで、人気はすさまじいものになっていた。

 準々決勝あたりから、ボクだけ別の通路を使って球場から出た。選手・役員口から三沢高のバスまでの十数メートル。球場入りする時は問題ないのだが、帰りが大変だった。警備員が人垣を作ってくれても道を確保できなくなり、バスにたどり着けない状態が続いた。危険を察知した大会本部が、ボクをファンの目にさらさないように特別措置を取ってくれたわけだ。

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女子中高生ファンにもみくちゃにされる太田氏。コーちゃん人気に火がついた

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