日本人初覆面レスラーの珍言【プロレス語録#8】
今や珍しくもなく、掃いて捨てるほどこの世に存在する日本人覆面レスラー。これは「日本人初の覆面レスラー」とうたわれた覆面太郎(正体は国際プロレス当時のホープ・小林省三=後のストロング小林)のデビュー戦直後のコメントだ。
覆面太郎は1967(昭和42)年7月27日、国際プロレス「サマー・シリーズ」開幕戦(愛知・名古屋市金山体育館)の第4試合でデビュー。初の国産覆面は紺と白地、額部分には日の丸がデザインされていた。
188センチの長身に、ボディービルで鍛えた138センチの胸囲と肉体美。怪力で先輩・大磯武の攻撃をハネ返し、最後は14分37秒、ボディースラムからのニードロップで3カウントを奪った。
「覆面レスラー=悪役」が常識だった当時、覆面太郎は初の正統派マスクマンでもあった。当時の本紙に「黄金バットのように、正義の覆面として日本のプロレス界の新風となりそうだ」と記されているのも時代だ。ちなみに黄金バットの顔は覆面ではないが…。
期待の星・小林を、あえて覆面戦士としてデビューさせたのは、老舗・日本プロレスに興行戦争を挑む国際プロの営業戦略だった。実際、同日に開催された日プロの静岡・磐田大会のメーンイベントでは馬場、猪木、上田馬之助がトリオを結成し外国人組を迎え撃つなど、豊富な陣容を誇っていた。
この日の本紙に掲載された国際プロの広告は、豊登、ヒロ・マツダの両エースを脇に従え、覆面太郎の写真が中央に配置。その下には「リングネーム全国募集中!」とある。覆面太郎は無名ホープを売り出す苦肉の策でもあった。
来春公開予定の映画「アカシアの花の咲き出すころ~ACACIA~」(辻仁成監督)で初主演するアントニオ猪木が、21歳の米国武者修行中に残したコメントだ。
「砂の女」(安部公房原作、勅使河原宏監督)とは1964年(昭和39年)に公開されたモノクロのムービー。主演の岡田英次が、砂に埋もれたアリ地獄のような場所から脱出できず、そこで安住する砂の女(岸田今日子)とアレやコレやといったストーリー。まだムーミンにはなっていない34歳の岸田による、砂まみれのヌードシーンも話題となった。
当時、米国ロサンゼルスのWWAマットで「リトル・トーキョー・ジョー」のリングネームで暴れ回っていた猪木は、そのしなやかな肉体と正統派ファイトで、玄人筋からは“和製ルー・テーズ”と高く評価されていた。その一方でガンガンと攻めるスタイルが相手選手に敬遠されたり、人気面でもショーマン派レスラーに後れを取るなど、ある意味、壁にぶつかっていた時期だった。連日、ザ・デストロイヤーや“生傷男”ディック・ザ・ブルーザーらと激闘を繰り広げていた若き闘魂は「休みは日曜日だけですが、練習が終わってからリトル・トーキョー(日本人街)でメシを食うのが楽しみです。この間の休みに『砂の女』という映画を見ましたが、さっぱりわからなかった…」と続けている。
現在の猪木は「米国武者修行中は、とにかく女性にモテたよ。ムッフフ」と当時を回想するが、このインタビューでは「女の友達は相変わらずできませんが、男の友達は不自由しません」と答えている。どっちが本当なのだろうか?
※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。