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池江璃花子の「誰にも泳いでも勝てなかったとき」が意味する真のスポーツマンシップ

 鳥肌ってこんなに立つのか…。取材で会場を訪れていた私は、日本中が歓喜に沸いた〝奇跡〟の瞬間を目の当たりにした。

 4月4日に行われた競泳の東京五輪代表選考会を兼ねた日本選手権第2日。この日の注目は、白血病からの完全復活を目指す池江璃花子(20=ルネサンス)だった。

 2年前の2月8日を境に、池江の人生が大きく一変した。合宿中に体調不良を訴えて病院で診察を受けたところ、白血病が判明。当時大学4年だった私は「神様は何でこんな仕打ちを与えたんだ」と絶句したのを今でもはっきり覚えている。

 あの日から約2年。縁あってスポーツ紙で競泳の取材に携わるようになった。その中で、池江が壮絶な日々を過ごしていたことを知った。抗がん剤治療の際には、医師から「髪の毛が全部抜けます」と告知され、大泣きしたこともあった。「一度だけ『死にたい』と家族の前で発したときがあった」とも。心身ともにボロボロだったのだ。

 ただ、このまま終わらないのが池江だ。昨年8月に実戦復帰を果たすと、2月の東京都オープン女子50メートルバタフライでは復帰後初優勝。かねて「目標は2024年パリ五輪」と公言していたが、東京五輪出場について「可能性があるなら頑張りたい」と話すようになった。

 とはいえ、現実的には「400メートルリレーのメンバーに入れたら奇跡だ」というのが大半の関係者の見方だった。私は「400メートルリレーで代表に入ってほしい。奇跡が起きてくれないかな」と祈るような気持ちで会場に足を運んだ。

 ところが、予想はいい意味で裏切られた。17時5分に始まった100メートルバタフライ決勝。「ただいま」とつぶやきスタート台へ立った池江は、57秒77の好タイムで優勝。400メートルメドレーリレーの代表切符を勝ち取った。

池江レース直後

感極まって固まる池江を2位の長谷川涼香がたたえるシーンは美しかった

 ゴール後、池江はしばらく動けなかった。約20秒の間に、病気後の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。

誰にも泳いでも勝てなかったときのことを一番初めに思い出した」

 インタビューでは「苦しくてもしんどくても努力は報われるんだなと思いました」などと涙ながらにコメント。20歳とは思えない重みのある言葉に、思わず涙ぐんでしまった。

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 終わってみれば、当大会で池江は4冠を達成。400メートルメドレーリレーと400メートルリレーで五輪代表に内定した。普通ならこの時点で満足してもおかしくないが「決まったからにはしっかり自分の使命を果たさないといけないと思っている」ときっぱり。この飽くなき向上心が池江の〝強さ〟なのかと驚かされた。

 また、この言葉の裏には「代表から漏れた戦友の分まで頑張ろう」との意志が垣間見えた。

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女子100mバタフライ決勝の表彰式。右から3位の飯塚千遥、1位の池江璃花子、2位の長谷川涼香(2021年4月4日、カメラ・今成良輔)

 東海大学水泳部監督でリオデジャネイロ五輪競泳日本代表のコーチを務め、昔から池江をよく知る加藤健志氏(55)は、歓喜の裏側にあったドラマを明かしてくれた。

「(アップなどをする)サブプールでは10人中9人が泣いていました。そういうやつらと向き合っているのが本当の人間模様で、本当のスポーツマンシップなんですよ。勝者がたたえられるのは美学だけど、五輪に行けるのは参加者30~40人中1人くらい。その他の選手は夢破れているわけですからね」

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東海大水泳部の加藤健志監督

 池江の泳ぎで最高潮の盛り上がりを見せた一方で、サブプールに響き渡る涙声。光の裏にはやはり影がある。「勝負の世界は残酷だ」と改めて思い知らされた。

 池江も代表入りを逃した戦友たちの涙を見てきた。だからこそ、加藤氏は「璃花子は本当に諦めないで泳いで、もう1度五輪に向けて頑張りたいと思って泳いでみたら、思ってもいなかった優勝。あの(4日のインタビューでの)言葉は全体を指して言った言葉なんだなっていうのに感動した。そういうのを瞬時に感じられる生き方になっている。本当に苦労したなと。成長した人間になったんだなと思う」と神妙に語った。

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 私は大学卒業までの約15年間、野球一筋の学生生活を送っていたが、高校1年の春に腰椎分離症を発症。自転車に乗るだけで痛みが走り、約1年半野球から遠ざかった。「何で自分が」と途方に暮れ、池江ほどではないが「生きている意味なんてない」と一人山の中で涙を流したこともある。リハビリを経て復帰するも、以前のようなプレーはできず、ランナーコーチとして仲間のサポートに徹した。「もう一度高校野球をやり直せるなら、腰が万全な状態でプレーをしたい」。今でも心のわだかまりは消えていないのが正直なところだ。

 でも、池江の泳ぎ、言葉を見て救われた気がした。スポーツで自身の夢を実現させた選手はごくわずかしかいない。大半の選手は志半ばで新たな道を模索することになるが、己を信じて突き進む池江の姿を見て1つ確信したことがある。

「スポーツには人の心を動かす力がある」

 スポーツ記者になってからまだ2年弱。この職業にしかできないことがあるはずだ。「読者の心を動かすきっかけとなる情報を発信する」。私も池江のように、己の力で道を切り開いていこうと心に誓った。(運動2部・中西崇太)

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