「猪木vs人食い大統領」が「さだまさし」を経由して「あみん」に!?【プロレス語録#18】
アントニオ猪木の異種格闘技戦の相手は玉石混交。実に様々なタイプが存在した。対戦が発表されつつも、実現に至らなかった選手も数多い。
中でも異色中の異色だったのがウガンダの“人食い大統領”アミンとの格闘技戦だった。これは1979年6月10日、ウガンダの首都・カンパラでアミン大統領との一戦が決まったアントニオ猪木のコメントだ。
アミン大統領はもともと、東アフリカのボクシングヘビー級王者になったこともある猛者。ウガンダ独立後の71年、クーデターにより独裁政権を築き、約30万人の国民を虐殺したという全世界の悪役だ。レフェリーはモハメド・アリ。猪木のギャラが50万ドル(約1億円)、アミン大統領は「公人のためギャラはなく、純益の半分を国庫に納める」ということまで決定していた。
猪木は「私も物好きかも知れないが、プロレスの看板を売るにはいいチャンスと思う。やってマイナスとは思わない」と前向きなコメント。あくまで本気だったが、この一戦はウガンダの反体制派クーデターの影響により中止となった。
「あみん」といえば「待つわ」で一世を風靡した岡村孝子と加藤晴子のコンビが有名。このネーミングは、79年発売の、さだまさしのアルバム「夢供養」に収録された一曲「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店「安眠(あみん)」に由来している。
さだ本人はこの喫茶店名をアミン大統領から拝借したそうなので、幻に終わるも世間を騒がせた「猪木VSアミン」の話題が、さだを経由して、人食い大統領とは何の縁もない岡村と加藤のコンビ名に化けた形だ。
2003年8月、アミン大統領は亡命先のサウジアラビアで死去。歌手のあみんは07年から活動を再開した。
これはアントニオ猪木の異種格闘技戦シリーズ(格闘技世界一決定戦)の刺客第1号として登場したオランダの赤鬼・ウィリエム・ルスカが、あり得ないハプニングに思わず発した言葉だ。
決戦当日の午後6時30分。日本武道館の控室に入ったルスカは、口を真一文字に結び柔道着に着替える。上衣はジャストフィットしたものの、ズボンにあたる下衣がキツくて入らないというアクシデント。思わず「アリャ…」と言葉を失ったルスカは猪木との決戦を直前に顔面蒼白となった。
慌てたルスカの代理人・福田富昭氏(現・国際レスリング連盟副会長、日本レスリング協会会長、JOC常務理事)が武道館を飛び出し、30分後にルスカ用の下衣を手に戻り、ルスカは無事に、上下柔道着姿でリングに上がることができた。
この一戦以降、ルスカは柔道着の上衣のみを着用し、下はプロレス用タイツで試合することが多かった。この試合直前のトラウマ、そして「きつい下衣は戦いの邪魔になる」という意識が、後々まで尾を引いていたのかも知れない。
猪木戦を控えたルスカは連日、代理人の福田氏、そしてセコンド兼用心棒として帯同していたクリス・ドールマン(後のリングス・オランダ総帥)との「3人組」で行動。当日も宿泊先のホテル・ニューオータニから靖国神社まで散歩に出かけ必勝祈願を行っていた。
「猪木対ルスカ」は今も語り継がれる名勝負。ちなみに、この日の武道館大会のセミファイナルは「坂口征二対タイガー・ジェット・シン」、第6試合ではストロング小林対オットー・ワンツ(当時のリング名はブルドッグ・オットー)が実現。第3試合では後に母国・ブラジルでルスカとも大死闘を繰り広げる元祖バーリ・トゥード戦士のイワン・ゴメスが藤原喜明を逆エビ固めで下している。
※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。