寺は要塞!?音戸ノ瀬戸に眠る毛利氏の巨宝
埋蔵金の第一人者・八重野充弘氏の連載を復刻中。今回は、担当記者も興味津々のこのお話。正直、〝ある〟としか思えません!
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徳川埋蔵金をはじめ、筆者が長年追い求めてきたターゲットは、絞り込んだとはいえ、すべて未決着のままだ。それに加え、最近になって急浮上してきた有力物件もあり、宿題は増えるばかり。その新しい宿題の1つが、戦国時代の雄、毛利氏の財宝である。秘話の舞台は、広島県呉市の倉橋島。平清盛が開いた音戸ノ瀬戸に臨む高台に、現在も毛利氏の子孫が住職を務める法専寺という寺がある。
地元テレビ局が寺を取材中、代々語り継がれてきた隠し財宝の話をキャッチした。その情報を元に、東京のキー局のスタッフと筆者とで調査を進めたところ、この寺のどこかに莫大な銀が隠されている可能性が出てきたのだ。
戦国時代、中国地方は世界的な銀の産地で、最大の石見銀山は尼子、大内、毛利の3氏によって争奪戦がくり広げられた。最終的に毛利氏のものとなり、豊臣秀吉に服従するまでの約40年間に掘り出された銀は推定約1500トン。当時、銀は重要な輸出品だったから、大半は海外に流出したと思われるが、それにしても、「石州銀」の形で現存するものがあまりにも少なく、山口県防府市の毛利博物館の所蔵品もたった15枚。市場価格は1枚450万円以上で、中には1500万円もするものがある。
法専寺が銀のストック場所だったことを裏付ける史実もある。1597年(慶長2)、元就の孫にあたる輝元は、秀吉に銀3000枚(約480キロ)を届けているが、往路は遠回りをして音戸ノ瀬戸を通り、ここに船を着けているのだ。夏のことで、輝元が水を浴びたという記録も残る。法専寺には湧き水があったから、銀を運び出す合間に、しばしの休憩をとったということか?
それだけではない。まず、この寺はおそろしく堅牢な造りになっている。斜面を切り開き、境内は盛り土をして海側にせり出しているが、それを支える石垣は、上へいくほど角度のついた、いわゆる「武者返し」である。交通の要所である音戸ノ瀬戸を見下ろす立地といい、この造りといい、寺というより要塞のようだ。毛利氏が最初から莫大な銀の保管場所として、この寺を建てたのではないだろうか。
そう考えた筆者は、2012年の7月、テレビ局のスタッフとともに現地を訪問。寺の境内を中心に金属探知機で入念に調査した。銀の反応のあるポイントが見つかれば、発掘を生中継しようという計画だった。手持ちのドイツ製探知機は、地中の金属を分別することができる。あくまで目安だが、ビープ音とともに液晶画面に表示される数値が60以下なら、鉄やアルミなどの卑金属、70以上が貴金属で、銅、銀、金の順に数値が上がる。
そして期待通り、本堂の右手前で明確な反応があった。探知機がうなり、液晶に「81」という数字が…。
「銀だ!」
念のため、地元の業者に依頼して地中レーダーをかけてもらうと、そこは一度掘って埋め戻した場所だというではないか。
「手応えあり!」
1週間後、スタジオ収録の時間に合わせて、現場から発掘のもようを中継した。小型重機で掘り下げていくと、深さ約1メートルの地中から現れたのは、さまざまな金属のくず。最も多かったのはぐるぐる巻きにした細い銅線だった。探査機がとらえたのはそれか。ついに銀は現れなかった。
2度目のチャレンジの機会はそれから7年後の2019年にやってきた。やはりテレビ番組だったが、年末に放送する戦国武将の人気投票を行う企画で、上位にランクされる可能性の高い毛利元就に関連したネタということで、もう一度ストック銀を探すことになったのだ。筆者はそのとき、もう少しエリアを広げて調べることを提案し、大きな木が生い茂る寺の裏山に狙いを絞った。
わずか2、3時間の調査で、歩いた範囲もたかが知れており、このときもっともエキサイティングな反応を示した場所から出てきたのは、古ぼけたアルミの弁当箱。あまりにもショボすぎて、結局、このシーンはオンエアされなかった。
かといって、可能性が完全に否定されたわけではなく、筆者はまだ継続して調べる価値があると思っている。今は次の機会を待っているところだ。