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〝読書DJ〟爆誕!?マスクが色っぽい説で本3冊をつなぐ

 人とは違った切り口が求められがちな東スポ記者がどんな本を読んでどんなことを考えているかを伝える連載がこちらの「東スポ読書部」なんですが、今回は1冊ではなく、ちょっと趣向を変えて複数冊を流れの中でご紹介してみようと思います。(デジタル・事業室 森中航)

東スポ読書部 タイトル画像

東スポからバタイユ!?

 先日東スポの男セン面で連載しているセクシー女優の小倉由菜さんがこんなことを言っていました。

「コロナのせいでマスクするのが日常になったじゃないですか? で、ゴハン食べるときは当然マスクを外すんだけど、それが何かすごくエロい♡ 隠すのが当たり前になるとエロくなるんだとしたら不思議な話ですよね」

おぐゆな

 マスクを外すのが色っぽいという視点なんですが、これはすばらしい気づきだなぁと思ったんです。というのも、『エロティシズム』という本で知られる哲学者、ジョルジュ・バタイユも小倉さんと同じようなことをずっと昔に言っているんです。私は大学時代に哲学科だったので、バタイユを何冊か読まされました。

 バタイユはひと言でいうと「クセがすごい哲学者」。他の動物が子孫を残すためだけに交尾するのに対して、人間は繁殖目的ではない性行為もすることに目をつけ、「人間だけが性活動をエロティックな活動にした」と言うんです。で、「どうして人間だけにエロティシズムが備わったのか?」という問いにこんな感じで答えています。

 人間は集団で労働する→集団で労働するにはルールが必要→そのルールを(一時的に)破るのがエロティシズムの本質(※あくまで私の要約ですが、この議論の進め方もクセがすごいところです笑)

人間の欲望が向かう対象は、《禁止》されているのである。この対象は聖なるものなのだ。この対象に重くのしかかっている禁止が、この対象を人間の欲望に差し向けるのである。(『エロティシズム』から)

 これが、バタイユが唱えた「隠すとエロい説」の概要です。まぁわかるっちゃわかりますけどね。

レディー・ガガからダーウィン!?

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 こんなことを思い出しているときにちょうど出会った本が『マスクをするサル』(正高信男著、新潮新書)でした。帯に「パンツ以来の歴史的変化。」と書いてあるのを目にして衝動買いしたんです。著者は京大霊長類研究所教授を務めた霊長類学者でサルのプロフェッショナル。冒頭からMTVアワード受賞イベントに奇抜なマスク姿で登場したレディー・ガガを分析しながら、こんなことを言います。

問題なのは、そこ(口元)を覆うマスクの方である。見たいけれど、見られなくしているマスクが俄然脚光を浴びるようになり、マスクに異性がセクシャルな思いをいたすようになると想像されるのだ。これは新たな感性の萌芽であるのかもしれない。少なくとも、今までになかったフェティシズムの登場と言えないだろうか。(18ページ、※太字は筆者)

 さらに、人類もサルも感情表現が出る場所が顔面の口唇部であることに触れながら…。

遮蔽されることによって、われわれはほとんど自動的に隠された対象をイメージしてしまうように心が働くのである。こうやって人類は、原野に潜む獲物を狩り、収穫物を採集したりすることに適応してきたのだと考えられている。しかも、それは仲間という社会的存在が対象である場合でも変わらない。下着やマスクが着用されているのを目にするや、隠れた部位に思いをはせるのを制止するほうがむしろ困難である。(62ページ、※太字は筆者)

 ドキッとしませんでしたか? 小倉由菜さんの気づきと正高先生の想像がこれでもかと言うくらいにつながって私は思わず膝を打ちました。そしてこの時点で私はまだ、もう一度膝を打つことを知りません。

 さて、『マスクをするサル』の第4章ではマスクと男らしさについて書かれているのですが、もっとも原始的な形質を今なお保持しているとされるサルを分類学的に4系統にわけると、鼻から上はさほど変化しないのにヒゲが異なり、自分と同じ種なのかを見極めるために形態的特徴の変化が起きたそうです。でも、サルだとオスでもメスでも生まれた瞬間からヒゲが生えているのに、ヒトは成人男性しかヒゲが生えませんよね。

 正高先生いわく、これは何らかの性的・視覚的メッセージを周囲にアピールするために他の霊長類と共有される身体特徴からのヒト独自の進化で、おそらく「男らしさ」のアピールなんだそうです。こんなことを言うと怒る人がいるかもしれませんが、そもそも人類の身体は一夫一婦に適応するようには本来的には進化してきておらず、『進化論』で知られるダーウィンはヒトのヒゲはクジャクの羽根のように所有者には役に立たないが、性的シグナルとして子孫をより多く残すことには貢献していると論じています。

過剰性とヤクザ!?

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 ここで意外な本とつながりました。『職業としてのヤクザ』(溝口敦・鈴木智彦著、小学館新書)です。ヒゲではありませんが、ヤクザは自分自身には役に立たないけど、こんなことをするのだそうです。

溝口 一種の顕示的消費というのがヤクザにはあって、例えば、クラブに行って、大きな金額をきれいに払えば、かっこいいヤクザだと見られてうれしいと。そういう意味で、ヤクザの場合は、デモンストレーションとしての金払いという側面がある。
鈴木 博奕場では、金払いがよく、払いが綺麗だと男を上げました。そこでの所作が器量の証明になった。その名残だと思います。人気商売なので、裏の仕事は人気のある組織に集中する。こうした金は宣伝費のようなものです。(124ページ、太字は筆者)

「金払いと性的シグナルは別なんじゃない?」と思われた方もいるでしょう。確かにその通りなんですが、「過剰性」というキーワードを頭に入れながら読み進めると、さらに面白い部分に出くわしました。第8章の「子分と子供、本当に大事なのはどちらか」で強いヤクザはモテるという話が出てきてこうなります。

溝口 ただ、稼ぐヤクザは女性にもすごく金を使います。これは間接的に聞いた話だけど、六代目山口組のある幹部は全国に十七人だかの愛人だか女房がいて、その全員に店を持たせていると。いざというときに、彼女たちが自活していけるようにということですが、十七人に店を持たせるっていうのは、そのために莫大な金がかかっているわけです。
鈴木 それも自慢の一つになるんでしょう。
溝口 金あってのそういう生活だとも思うけれども、そのことに罪の意識なんて全然ないんです。考えてみると、ヤクザというのは、オス性の過剰によってヤクザになった側面もあるわけで、オス性の過剰というのは、やっぱり、港港に女ありということになる。(140ページ、太字は筆者)

 そういえば最近の芸能人やスポーツ選手の性的スキャンダルの特徴も、特定の一人と不倫するのではなく、複数の異性と同時期に性交渉を持っていたという点なんですよね。「愛がない」と道徳的に断罪するだけでなく、本を読むことで「これは性の動物化が進んでいるのかもしれないな、もしかしたら歴史的に性の解放と抑圧が関係しているのかもしれないな」とさらなる視点を得られるわけです。正高先生もこんなことを言っています。

好むと好まざるとにかかわらず、世界中で人々が顔の下半分を覆って外出するようになったことは、人類が失いかけている生活の二面性を取り戻す、あるいは人類の動物化を食い止める稀有の機会だろうというのが私の意見である。(前掲書、170ページ)

 いかがだったでしょうか? マスクひとつだけでもこれだけのことが考えられる(から見出し画像を高速道路のジャンクションにしてみました)。そして、読書が思考をつないでくれる楽しみを少しでも共有いただけたらうれしいです。

 こうやって連続して本を紹介する文章を書く作業はDJに似ている気がするので、個人的には〝読書DJ〟と名付けたいと思います(笑)。というわけで、また日々読書して〝プレイリスト〟ができたら公開します。

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