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クセは盗まれたけど、野村克也さんに〝お化けフォーク〟と言われてうれしかった【野田浩司連載#3】

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全盛期はフォークが4割

 僕がフォークを意識するようになったきっかけは、阪神時代の2年目(1989年)の秋季キャンプでした。ドジャース傘下の投手コーチが教えに来ていて「フォークをどんな感覚で投げているんだ」という話になった。それまであんまり考えてなくて「押し出す感じでこういうふうに投げてます」と言ったら「上から引っ掛けるように投げなきゃダメ。かぶせるように投げなさい」と言われた。ああそうなんや、と思ったんです。

 それからワンバンになるようなかぶせるイメージを持ち始めたんです。入団当時なんかはワンバンで投げたら怒られた時代。しっかり投げんかい、って。野球って変わってきてはいるけど、まだそのころも名残が残っていましたからね。ワンバンするか、しないかが一番いいフォークやと。そこからですね。

阪神ドラフト1位・野田浩司(87年11月)

阪神にドラフト1位で入団したときの野田(87年11月)

 和田(豊)さんに「お前が打たれにくくなったのは、フォークでカウントを取っているからやぞ」と言われたことも覚えています。フォークは勝負球、という考えがあったけど、いつの間にかカウント球としてストライクが取れるようになった。捕手の木戸克彦さんも引き出してくれたと思う。「打者にすれば初球からフォークでカウントを取られるのはすごく嫌なことやぞ」ってね。初球からでもフォークを投げれるということはそれだけ自信があるということで、自分のものになってきていた。それにはやはり技術がいる。初球からボールだと苦しいわけですからね。

 93年にオリックスに移籍するとパ・リーグの打者が空振りをしてくれる。三振を取れれば自信になる。味をしめたというか、フォークを投げる比率は増えました。全盛期、スコアラーのチャート表を見たら4割は投げてましたよ。あとは真っすぐとカーブだけ。カーブは1試合、7~8球くらいでした。同じフォークでも力を落として投げたり、追い込んだら思い切り腕を振るとか、スピード差の変化をつけていました。

和田豊と木戸克彦

阪神時代にチームメートだった和田豊(87年)と木戸克彦(83年)

 阪神時代に大石清投手コーチからよく「BPボール、BPボール」って言われていたんですけど、いわゆる“バッティングピッチャー”が打者に練習で気持ちよく打たせるような感じで投げることもあった。それを試合でアウトコース低めに投げると打者はほとんど振らないんですよ。球種が少ない分、そういうアレンジをしていました。

 高低の投げ分けはできていたし、捕手のサインは一緒でも勝手に力を入れたり抜いたり、思い切りワンバン投げたり…。満塁で3ボール、1ストライクになってもフォークを投げていましたね。真っすぐよりもフォークの方がストライクが入る。打者も真っすぐ一本待ちなんでフォークの方が打ちづらいでしょうから。それだけフォークを投げるようになっていたんで、当時ヤクルトの監督だった野村(克也)さんなどに“お化けフォーク”なんて言われてね。うれしかったですよ。

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オリックスに移籍するとフォークを武器に三振を量産していった

クセ盗みを防御するために穴のないグラブを作った

 ヤクルトだったらジャック・ハウエルという左の強打者がいたんですけど、トーマス・オマリーが「ハウエルはとにかくセ・リーグではお前の球が一番打ちにくいらしい。自信持っていいぞ」と褒めてくれたこともあった。

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ヤクルト時代の野村克也監督はクセ盗みの達人。細かい動きを見抜かれていた

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