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家康も目をつけた!〝奥州藤原氏の黄金〟結城家の財宝

 埋蔵金研究の第一人者・八重野充弘氏が東スポ本紙で連載してくれた名コラム。もっともっと多くの人に読んでいただきたいので、noteでの復刻をスタートさせました。おかげさまで1回目の「徳川埋蔵金」は大好評。2回目も日本を代表する埋蔵金伝説です。

ルーツは奥州

 平安末期、源頼朝の奥州平泉征伐に従軍した北関東の雄、結城朝光は、藤原氏の黄金のすべてを頼朝から移譲された。それを代々大切に保管していたが、徳川家康に目をつけられ、17代目の晴朝が埋蔵した――。以上が結城家の伝説のあらましで、長さ40~60センチの金の延べ棒が5万本もあるという。

 知名度では徳川や豊臣より低いが、結城家の財宝は日本を代表する埋蔵金伝説の1つだ。壮大なロマンを感じさせる理由は、第一に、財宝のルーツが、「黄金の国ジパング」の噂のもととなった、奥州藤原氏の莫大な金であること。そして、先鞭をつけた家康から現代のトレジャーハンターに至るまで、実に多くの人々が、茨城と栃木にまたがる旧結城領で発掘を繰り返してきたことである。探索の歴史だけでもすでに400年を超える。

 以前のおもな探索の舞台は、現在の栃木県下野市本吉田の会之田の館跡だった。結城家が家康によって越前福井へ転封されるまで、晴朝の隠居所だったところといわれ、江戸中期には8代将軍吉宗の命で、大岡忠相が発掘を行っている。このときは掘った穴が崩れて、11名の犠牲者を出し、その霊を弔う碑が今も建つ。

会之田大岡越前慰霊碑

享保年間に大岡忠相が行った発掘の際の犠牲者の慰霊碑が、館跡の一角に建つ(現在は移動)

 明治以降も、最後の結城城主である水野氏の子孫が、米相場で当てた熊倉良助と組み、大がかりな発掘を行った。さらに1967年からは、筆者が知る限り日本でただ一人埋蔵金発見の実績をもつ仲元虎斉氏が挑戦し、89年までの22年間に、1億円以上をつぎ込んで掘ったが、いずれも失敗に終わった。

会之田城跡発掘A

 昭和の終わりごろに筆者も参加した、会之田の館跡での発掘のもよう

 以後、会之田の館跡の発掘は行われておらず、現在は小山市内の結城晴朝にゆかりのある別の城跡が注目されている。その場所を暗示するものが見つかったからだ。

謎文の解読で導き出された場所

 茨城県結城市小田林の金光寺は、結城家初代朝光の守り本尊として創建された寺だが、後世に建てられた山門には謎の和歌や絵が彫られていて、結城家の財宝のありかを知る鍵といわれる。

金光寺山門和歌3

金光寺山門の絵

金光寺山門に彫られた和歌と絵

 20年ほど前、その謎の解読に成功したという女性が現れた。東京在住のIさんである。筆者が彼女の調査に協力したのは、山門の彫刻がある場所を示していると確信したからだ。そこは前述の、寺からほど近い栃木県小山市の中久喜城址で、黄金埋蔵の実行者といわれる結城家17代晴朝の隠居所だったところ。平成の初めまで発掘が続いた、同県下野市の会之田の館にいたのは晴朝の影武者だったと、Iさんは考えている。

 Iさんは城跡を各種の探査機で調査し、試掘と本発掘を繰り返した。特に大がかりだったのは、2001年1月、フジテレビの特番のロケのときだ。雪が舞う中、筆者も参加して重機で掘ったが、結果は空振り。4日もかけて撮影し、しかも地井武男氏と大和田伸也氏という大物俳優が立会人になっていたのに、ある事情から番組のオンエアは見送られた。

中久喜城跡の祠

 筆者が重要ポイントとみる、中久喜城址の一角

 ほかにも、中久喜城址に目をつけた人物がいる。4億円を資本に、日本初の埋蔵金発掘の会社をつくったY氏だ。最初は畑になっている本丸跡を、2度目はIさんも狙っていた土塁跡を掘ったが、どちらも成果なし。また、2009年には日テレの「24時間テレビ」で発掘が企画され、筆者がスタッフとともに小山市教育委員会を訪ねたが、許可を得るには時間がかかりすぎることがわかり断念。筆者が本命と考えるポイントは、まだ手つかずのままである。

中久喜城跡遠景

中久喜城址は史跡に指定されているため、今は発掘をするのは極めて難しい
 やえの・みつひろ 山に、海に、眠れる財宝を探して47年!のトレジャーハンター、作家。日本トレジャーハンティング・クラブ代表。1974年、熊本県天草下島での財宝探しを開始。以後、日本各地の埋蔵金伝説を求めて全国30数か所を歩き、これまで実際に発掘を行った場所も10か所以上にのぼる。財宝探しや埋蔵金に関する著書多数。公式HPでは徳川埋蔵金を題材にした小説「リカバリー」も公開されている。


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