初めて知った「トーキングブルース」
イエモンのJAM
THE YELLOW MONKEYの「JAM」という曲がある。同バンド9枚目のシングルで、1996年2月29日リリース。イエモンファンなら知らない者はいないほどの名曲だ。3連符のアルペジオで始まる美しいロックバラードだが、ラストのサビにあてられた強烈な歌詞はつとに知られている。
当時小学生だった私は、ラジオから聞こえる「いませんでした」のリフレインで呆気にとられるしかなかった。ニュースキャスターは本当に嬉しそうに言ったんだろうか。なぜ心が震えているのか。
古舘伊知郎の異色キャリア
若い人にとって古舘伊知郎はニュースキャスターのイメージが強いのかもしれない。1977年にNETテレビ(現テレビ朝日)に入社した古舘は同年7月にプロレス中継番組「ワールドプロレスリング」の担当になり、その後87年までの10年間はプロレス実況に革命を起こしたアナウンサーとして大活躍する。
89年から94年まではフジテレビのF1グランプリ中継を担当。アイルトン・セナを「音速の貴公子」と呼んでいたことはおぼろげながら記憶に残っている。94年からは3年連続でNHK「紅白歌合戦」の白組司会を担った。民放出身アナの紅白司会は初めてで、国民的アナウンサーは数々のバラエティ番組でも得意の喋りで爪痕を残した。
その古舘は2004年、報道の世界に飛び込む。「報道ステーション」の初代キャスターとして仕事に専念するため、2016年春に降板するまで極力、他番組に出演しなかったという。古舘のキャラクターを決定づけたプロレスの10年、F1の5年を優に超え、12年が過ぎていた。
時代の流れ
古舘と彼を支えた男の半生を追った『トーキングブルースをつくった男』(元永知宏、河出書房新社)の第8章には「浦島太郎の逆襲」というタイトルがつけられている。
30年以上続くトーキングブルース
ところで「トーキングブルース」とは何なのだろうか。古舘はプロレス実況でお茶の間を沸かせていた84年、30歳でテレビ朝日という大企業を飛び出し、7人の仲間と「古舘プロジェクト」を立ち上げる。タレントは古舘ひとりだけ。今考えてもかなり野心的な挑戦だろう。同社ホームページにはこんなメッセージが綴られている。
その創業社長の佐藤孝が、古舘に課したのが「トーキングブルース」だという。その理由について、佐藤はこう語っている。
無知な私はこの本を読むまで知らなかったが、古舘は2時間以上たったひとりで喋り続けるトークライブ「トーキングブルース」を1988年から続けてきた。昨年も12月に有楽町よみうりホールで1日限りの開催。どんなものか知りたくなり、古舘のYouTubeチャンネルを探してみると、2014年の公演がアップされていた。
話芸という言葉では片づけられないくらい圧倒された。マシンガンのように飛び出した言葉が次々と私の頭の中に飛び込んでは〝映像〟を組み立てていく。そして何かが揺さぶられている。ボーカロイドには決してマネできない領域だろう。誤解を恐れず言えば、私には古舘伊知郎という人間そのものが爆発しているように見えた。
「言葉」のチカラ
自分が知らない世界で起こっている出来事は、ニュースキャスターの言葉を通じて私の中に飛び込んでくる。そこから先は私が何をするかを問われるような気がする。冒頭に引用した「JAM」の歌詞はこう締めくくられる。
おわりに
『トーキングブルースを作った男』を読むきっかけを与えてくれたのは著者の元永知宏氏だった。先月、とある会合で出会い、私が東スポの記者だとあいさつすると、「家も近所の幼馴染が東スポで働いているんだよ」とK先輩の名前をあげた。「ちっちゃいころからいい奴なんでよろしくお願いします」と物腰柔らかく言われ、私は分不相応なお願いを引き受けてしまった。
2日後、部署が異なるため入社して以来ほぼ接点のなかったK先輩に元永氏にお会したことを伝えると、「なんで?どこで?」と目を丸くしつつ、「あいつはいい奴だからWEBで何か使ってあげてよ」とまたもや頼まれてしまった。何より年月を経ても、お互いがお互いを思いやる先輩方の関係に心が温まった。今、私にできることは……元永氏の本を紹介するくらいしかない。
そんな経緯で詠み始めた『トーキングブルースを作った男』は圧倒的だった。どう紹介すればいいものかと迷っているときに、スポーツ報知の記事を目にしてしまった。
執筆者は私の高校の先輩でもある加藤弘士氏で、取材後記も含めて本当にすばらしいものだった。そんななかで拙い原稿を書くのはとても忍びなかったが、古舘伊知郎が喋り続けているように、書き続けるしかないのだと思う。(東スポnote編集長・森中航)
(文中一部敬称略)