「ストレスがあって楽しい」でもいいじゃないか
「慢性的なストレスはがんによる死亡リスクを高める可能性」
「座っている時間が長いほど死亡リスクが15%増加する」
こんな記事を時々見かけると、心がキーーッてなります。こちとら好きでイスに座ってるわけじゃないのよ、仕事なのよ仕事。そんでもってストレスの大半は数字のせいなのよ数字。
記事の通りなら私の死亡リスクは上がっているのかもしれません。でも、私の主観では「新聞記者はストレスがあって楽しい!」なのです。もちろん、疲労がたまってくると「インターネットも携帯電話も通じない平穏な世界でゴロゴロしたい」という願望がわいてきますが、そんなときは身近なサウナに行けばいいのです。え、サウナで不整脈のリスクが増加する!? それはそうなのかもしれませんが、会社にいるよりはマシに決まっています(※個人の感想です)。
新聞は客観性の塊ではない
新聞記事を書く上で客観性が大切なのは言うまでもありません。東スポも加盟する日本新聞協会の新聞倫理綱領にはこう記されています。
あまり知られていないかもしれませんが、新聞記事は3つに分類することができます。
事実だけを伝えるストレートニュース
事実の背景を含めて伝える解説記事
上記のニュースに自身の意見を加える論説記事(社説とか)
客観性だけでみると①>②>③となりますが、大きな事件であればあるほど解説や論説も必要になるので、実は結構な主観的な価値判断がなされているのです。だからこそ、私たちは可能な限り、中立的で客観的に報じることを肝に命じなければならないのです。そして東スポ記者の場合は〝らしさ〟も求められます。
ホモ・エビデンスが増えたのはなぜ?
最近の世の中では、なんでもかんでもエビデンスを求めてくる人がいます。まさにホモ・エビデンスです。ところが、大阪大学大学院人間科学研究科の村上靖彦教授は「客観性が支配する世界はたかだか二〇〇年弱の歴史しか持たない」と指摘してます。
気象情報のような例外もありますが、世の中のニュースのほとんどは人間の経験を伝えるものだと思います。その意味で新聞記者は「それって個人の感想ですよね?」といった具合にデータやエビデンスだけを求めるようになってはいけないのだと思います。
私がまだ駆け出し記者だったころ、ある事件取材の方向性に迷ってデスクに電話したとき「今、忙しいんだよ。とにかくさ、考えるな、感じろ!」とガチャ切りされたことがありました…。当時は途方に暮れましたが、今ならこの指示の意味がわかる気がします。その場で立ち止まってあれこれ思考をめぐらせるよりも、取材現場も飛び回って話を聞いてとにかく経験しろというメッセージだったのでしょう(笑)。
インタビュー取材は極上体験だ
時代はまさにデータ全盛ですが、新聞記者にはインタビューという、とっておきの経験(仕事)が残っています。特に1社だけで行う単独インタビューは特別です。話がどこまで弾んでどこまで聞けるかは記者の腕次第。1対1で面と向かって話を聞くとなると準備不足はすぐにバレます。もちろん入念に準備をして様々な質問を用意していきますが、生身の人間の会話だからあちこちへ飛んでいきます。「あ~こっちの話のほうが面白かったのに時間配分をミスったなぁ」と反省することもしばしば。流れが悪いなと思ったときには、あえて原稿には絶対1文字も使わない自分の話を切り出すこともあります。スベることもありますが、遠回りが楽しいこともあるのです。
ちなみに村上教授も語りを大切に扱うべきだと書いています。
おっしゃる通りです!インタビュー原稿を書き上げるときには重複を省いたり、言い間違いを直したりしますが、それはちょうど音楽のレコーディング作業のようにバランスや音量を調節にする作業なのだと思います。となると、インタビューそのものがライブであり、だからこそ極上の体験というわけです。さて、そろそろ会社から脱出して取材に行ってきます!(東スポnote編集長・森中航)