〝偉い人〟に媚びるのではなく、支えることに徹するという生き方【野球バカとハサミは使いよう#7】
「分をわきまえる」は一見簡単そうで難しい
分をわきまえる。これは多くの人が適材適所で働く組織においては非常に重要なことだ。
プロ野球界では現阪神監督の和田豊の現役時代がそうだった。彼は分をわきまえることで大成した選手だったのだ。
プロ入り前の和田は日本大学で主将を務め、1984年のロス五輪日本代表として金メダルを獲得するなど、アマチュア球界のエリートだった。しかし、85年に内野手として阪神に入団すると、早くも挫折。なにしろ当時の阪神の内野陣は全盛期の掛布雅之、岡田彰布、ランディ・バースというそうそうたる顔触れ。打撃練習での彼らの驚異的な飛距離を目の当たりにした和田は自分の非力さを痛感し、自分はプロで主軸を打てるような打者ではないと悟ったという。
以来、和田は長打を捨て、右打ちやバントなどの小技を磨くことで脇役の道を意図的に歩み始めた。その結果、88年にレギュラーを獲得すると、長きにわたってトップバッターとして活躍。決して派手な選手ではなかったものの、職人芸と称された巧みな右打ちを武器に毎年安定して打率3割前後を記録し、通算1739安打を積み重ねた。
しかし、そんな和田にも長打への未練はあったという。すべてのプロ野球選手がそうであったように、和田も学生時代はチームの主軸として長打を放ってきた。そのころの快感はプロで脇役に徹していても、忘れられるものではなかったわけだ。
そこで和田は邪念を払うために、毎年春季キャンプの最初の打撃練習で意図的にホームラン狙いのバッティングを見せた。現役通算29本しかホームランを打たなかった選手が、一年に一度だけホームランを連発する。そうやってホームランを“打ちだめ”した後は、きっぱりそれを封印し、いつもの渋い右打ちに徹したというのだ。
これはサラリーマンにも参考になる極意だ。「分をわきまえる」とは一見簡単そうだが、いざ実行すると本来の衝動に邪魔をされて、なかなか貫けなかったりする。そんなときは、和田のように本来の衝動を別の場所で発散するといい。
例えば、本当は企画をやりたかったのに事務に徹しなければならないのなら、家で企画書作成に励むのはどうだ。それを上司に評価されたら万々歳だが、されなかったとしても事務としての評価が下がることはないだろう。
人間は元来強い生き物ではない。だからこそ、セルフコントロールには工夫が必要なのだ。
華やかな大エースを支え続けた地味な名捕手
球史に残る黄金バッテリーといえば、かつての阪神タイガースに君臨した江夏豊と田淵幸一が特に有名だ。もちろんファンによって多少の意見の違いはあるだろうが、彼らのように投手と捕手がどちらも花形スターだったケースは非常に珍しい。
一方、華やかな大エースを陰で支え続けた地味な名捕手もいる。彼らは決してスターではなかったが、大エースの女房役として貴重な存在感を発揮した。
私見では、1980年代のロッテオリオンズで活躍した袴田英利捕手が印象深い。当時のロッテの大エースといえば、説明不要のマサカリ投法・村田兆治。力強いストレートと懸河のごとき落差を誇るフォークボールを武器に通算215勝を挙げた剛腕に最も信頼された恋女房こそが、この袴田だったのだ。
村田の袴田への信頼感を物語るエピソードとしては、90年10月13日の村田の引退試合が挙げられる。当時40歳になっていた村田は、同じくベテランとなったため、二軍に落とされていた袴田に「俺の捕手はおまえ以外にいない」「おまえとじゃなきゃ終われない」と声をかけ、引退試合の捕手役として袴田を一軍に呼び寄せたという。
そして、久方ぶりの村田・袴田のバッテリーが復活し、なんと見事な完封勝利(5回降雨コールド)を達成。さらに袴田自身もこれを最後に引退することを発表し、ロッテファンの感動をますます誘った。このように、村田には強く請われた袴田であるが、それでも彼は当時のロッテで長きにわたって活躍した絶対的な正捕手ではなかった。
袴田は現役13年間で規定打席に達したことはわずか2回、年間100試合以上の出場も5回しかなく、数字の上では意外に平凡な捕手だった。要するに、袴田は村田という大エースの実力を誰よりも巧みに引き出せることでチーム内に自分の居場所を確保し、その村田とともにプロ野球人生をまっとうした、いわば専門分野に特化した職人型の捕手だったわけだ。
これはサラリーマンにとっても非常に参考になる極意だ。組織の中で誰に信頼されるか、すなわちどの上司に強く請われるかによって自分の運命は大きく変わってくる。
それならば組織の中で一番の辣腕を見極め、彼の懐刀となることに心血を注ぐのも大切な処世術だ。偉い人にこびるのではなく、その人を支えるという仕事に徹する。それは立派な職人技なのだ。
※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。