尾張徳川家ゆかりの大寺院に莫大な黄金が!?
ワクワクしたい人はぜひ!の埋蔵金コラム。第一人者・八重野充弘氏が、今回も現実味あふれるネタを提供します。
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名古屋市昭和区八事に、興正寺という大きな寺がある。元禄元年(1688)、尾張徳川家2代目藩主光友によって建てられた高野山真言宗別格本山で、「尾張高野」とも呼ばれる。
ここに、尾張徳川家に伝えられてきた黄金が隠されているというウワサが立ったのは、割り合い最近のこと。幕末にまとめられた名古屋城に関する古記録から情報を読み取った地元テレビ局が、2011年秋に調査を開始し、筆者も参加することになった。
どんなお宝かというと、徳川家康が豊臣家を滅ぼしたときに大坂城から運び出した金銀で、御三家に30万両ずつ均等に分配されたのだという。「駿府御譲金」と名付けられ、有事の際にしか使ってはならないものとして、名古屋城では小天守の地下蔵に収められていた。もし、30万両がすべて黄金なら、重さは4.5トン。時価200億円を軽く超える。金貨であれば骨董価値はさらに何十倍にもふくらむだろう。
その莫大な財宝が、名古屋城内から消え失せたのがいつのことかは、今となってはわからない。ただ、いくつかの根拠から、興正寺に移された可能性が高い。その1つが、幕末の古記録にある興正寺での出来事だ。
嘉永6年(1853)に、尾張藩が本尊の大日如来が安置される大日堂の地下を掘り返したというのだ。目的は埋蔵金の発掘だったというが、筆者たちはその裏にある秘密を知った。翌2012年4月の調査の際に、大日如来の台座の下から大きな木箱が現れ、中身は文書や真言宗の仏具類だったが、表書きに「再治御納」と「嘉永六年」の文字があったのだ。これは、幕末の工事が「発掘」ではなく「埋蔵」だったことを物語っているとしか思えない。
調べを進めていくうちに、この寺に財宝が隠されている可能性が高まっていった。はっきりしているのは、興正寺が単なる宗教施設ではなく、名古屋城の東南を守る要塞の役割を果たしていたこと。総門の東にある東山門の両側には、僧兵が武器を携えて常駐した部屋があり、最上層の屋根に天窓がついている五重塔は、どうみても物見櫓だ。
総本尊の大日如来が、東北のはずれにあるお堂に安置されているのも妙である。そのお堂は、まちがいなく人工的に盛られた小山の上に建つ。きっと、幕末の工事は別の場所に保管されていた黄金を、より安全なところに移すためのものだったのだ。嘉永6年といえばペリー来航の年。開国に備えて、黄金の緊急疎開を行ったという話はほかにもある。
さて、大日如来の台座の下から、埋蔵の事実につながる物証を発見したあと、2012年7月、筆者は地元テレビ局のスタッフとともに、まず大日堂周辺の探査を行った。金属反応のあったところを掘り返したが、かなりの量の小銭が出てきただけだった。江戸時代の銅銭もあったが、こぼれ落ちた賽銭だろう。
その後注目したのは、広い墓地を貫く雨水の排水溝だ。その出口が、大日堂から西へ150メートルほど離れた墓地のはずれにある。もともとあった横穴を排水溝に利用したのは明らか。狭すぎて人は入れないので探査ロボットを入れたが、70メートルほど奥に水たまりがあり、その先には進めなかった。また、地上から電気探査をやった結果、穴がまっすぐ大日堂に向かっていることもわかった。
筆者は、黄金は大日堂の地下に隠されていて、いざというときにはこの横穴を使って回収するしくみになっていたと考えている。横穴の奥に何があるかは、入ってみないとわからない。
調査を実施した当時、2016年か17年ごろには大日堂の建て替え工事を行うことが計画されていた。もしかすると、人工の小山を崩すことになるかもしれない。そのときこそ真相を解明するチャンスと意気込んでいたのだが、寺の事情によって、計画は延期されている。しかし、近いうちにそのときは必ずやってくるはず。今は首を長くして待っているところである。